12月22日のメッセージ
2024年12月22日『たましいの糧〜クリスマス③〜』
<ルカの福音書>
2:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、 2:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。 2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、 2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
<三本の木>
昔あるところに三本の木が立っていました。木々は互いに夢を語り合います。
僕は、輝く高価な宝石や財宝をいれる宝の箱になりたい。
僕は、大きな船になって世界を冒険し、見たこともない素晴らしいものを見たい。
僕は、この場所で大きくなってたくさんの人々に見上げられたい。
ある日木こりがやってきて、三本の木を切り木材にしました。
最初の木は、宝箱ではなく家畜のエサ箱になりました。動物達のよだれにまみれています。
次の木は、帆船でなく小さな小舟になりました。湖で浮かび、生臭い魚を乗せています。
最後の木は、十字架刑の木材になりました。血と、痛みと、絶望が染み込んでいきます。
ところがある日・・・
エサ箱には、一人の赤子が寝かされました。羊飼いがその子を拝んでいます。木は、自分が最も尊い宝をいれていることに気付きました。
小舟には、一人の人が乗り、嵐を沈め、病人を癒やし、貧しい人に救いを語ります。木は、自分が誰にも出来ない冒険をし、素晴らしいことを見ていることに気付きました。
十字架に、一人の人がかかります。その人は隣の罪人に天国を約束し、自分を殺す者たちの赦しを祈りました。木は、やがてすべての人が自分を見上げ希望を得ることになると気付きました。
願いがや思いが実現せず、自分の生涯は何だったんだろうと思うこともあるかも知れません。けれど、もし、キリストが私達のところに来てくださるなら、私達に生涯は特別な意味を持つのです。
<居場所のなかったキリスト>
この年末の時期になると、路上生活者支援ネットワークを主催し、頻繁にメディア等にも取り上げられる奥田牧師が話している「ホーム」と「ハウス」は違いについて考えさせれます。ホームとは家庭、ハウスとは家・建物であり、今多くの人がハウスはあるが、心のよりどころ・本当の居場所であるホームを失っている、と指摘しました。私たちは、心のよりどころ、「ホーム」を持っているでしょうか? 最初のクリスマスには、「ハウス」は入れてもらえなかったけれど、「ホーム」を見つけた人のお話です。
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、 2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
出産間近のマリアとヨセフは、住民登録をせよという皇帝の命令によって、ヨセフの生まれ故郷ベツレヘムに向かいます。マリアが産気づいたため、泊まる場所を探します。幼稚園のクリスマス劇では「トントントン宿屋さん。どうか一晩泊めてください。」「どこのお部屋もいっぱいですよ。」「困った困ったどうしましょう。」「向こうの宿屋に行ってください♪」という歌があるのですが・・・よく聖書の場面を読むと、宿屋が満員とは一言も書いていないのです。「宿屋には彼らのいる場所がなかった」とあるのです。
7節を直訳すると「彼らのための居場所(トポス)は客間(カリューマ)にはなかったからである」となります。(カリューマいう言葉は聖書に3回出てきますが他の2回は客間と訳されます。)当時は知人や親族の家が宿替わりなのです。ところが、故郷であるはずが、親族も知人も多いはずが、誰も出産間近の若い夫婦を招き入れないのです。マリアは結婚前に妊娠した罪深い女と誤解され、マリアと結婚したヨセフも合わせ、不品行をした罪深い汚れた人として、「そんな汚れた人間を受け入れられない!!あなたはうちに入るのにふさわしくない!」と拒絶されたのです。(実際、宗教家が、イエスを「私たちは(あなたと違って)不品行によって生まれた者ではありません。」ヨハネ8:41と揶揄する場面があります。)
そのために、どこの家にも居場所がなく、家畜小屋に滞在し出産、馬の餌箱、飼い葉桶が、イエス様のベビーベッドとなりました。マリアもヨセフも、悔しさや、惨めさや、悲しさ、怒りでいっぱいだったでしょう。飼い葉おけ、飼い葉おけ、飼い葉おけと3回出て来る。これは、拒絶の、居場所のなさの、孤独の、悲しみの象徴であり、この出来事は赤ちゃんの一生を表しています。
<私たちを受け入れるために>
けれど、この拒絶にも、悲しく惨めな生まれ方にも、意味があるのです。この飼葉桶こそが、私たちへの良い知らせなのです。
直後には、羊飼いが出てきます。社会的にも、宗教的にも、見下され、拒絶された仕事です。そんな彼らに、キリストの誕生が一番に知らされました。 もしイエス様がお城や神殿に生まれていたら、彼らは救い主に出会うことが出来なかった。イエス様が、人々に拒絶されたから、同じように拒絶された羊飼いが出会うことが出来たのです。神さまは、人々に拒まれ、馬小屋に生まれてまで、羊飼いを受け入れてくださったのです。
ある人が、「飼い葉おけを覗くと、十字架が見える」、と言いました。飼い葉おけと十字架はつながっています。飼い葉おけは、人からの拒絶を意味し、キリストの生涯は、誤解されること、拒絶されることの連続でした。裏切られ、誹謗中傷され、最後は・・・恥や痛みの象徴である十字架にかかったのです。けれどその十字架の上で死刑囚に出会います。私たちの神は、拒絶されてまで、拒絶された人と出会いに行くのです。
42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」 ルカの福音書23章
その死刑囚は、世界で初めて、天国が約束された人物です。
私たちは、これまでも、今も、これらかも、誤解され、拒絶され、孤独や寂しさや悔しさを感じることがあるかもしれません。失敗や過ちから、自分で自分が受け入れられないことがあるかもしれません。けれど、神があなたを受け入れないことは決してないのです。
キリストは十字架の前夜、最後の晩餐の席で言いました「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。・・・あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(ヨハネ14:2直訳「あなたがたのための場所を備えに行く。)私達のための場所は、天の父のところにあるのです。そして、十字架の上で自分を拒むすべての人のために、赦しと祝福を祈ったのです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:24)
毎年のように「戸をたたくキリスト」という宗教画を紹介しています。最初のクリスマス、ベツレヘムの家々の戸をたたいて以来、キリストは私達の戸をたたき続けています。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」黙示録3:20
食事をする、とは、あたたかな場所を、暗い心が明るく照らされるような、弱り果てていたいのちが生き返るような、神との関わりを意味します。
私は、20年ほど前のクリスマスに、キリストを信じました。私のうちに入り、共にあってくださいと祈りました。
信仰があっても、苦労や、悩みはつきません。実現しない願いもあり、攻撃され一人泥をかぶる時もあり、失望や怒りで心が一杯になる日もあります。けれど同時に、神は自分を見捨てない、という絶対的な安心感があります。どれだけ地上で損な生き方でも、天国という宝を得ているからこそ、くじけず、分け与えたり、尽くしたりも出来るのです。
キリストが私達の内に入る時、ただの「ハウス」であった私達の内側が、いのちに満ちた「ホーム」となりうるのです。