毎日の聖書12月9日〜
おざく台教会毎日の聖書 12月9日~
1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。
12月9日(月)出エジプト記2章
23~25節「イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。 神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。」
民は「うめき、わめいた」のです。立派な祈りの形式をなしてはいません。しかし、その叫びは神に向けられていました。神は言葉にならない祈りを聞かれる方です。あなたの心は、叫びは、神に向けられているでしょうか?
「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」エレミヤ書33章3節
12月10日(火)出エジプト記3章
12節「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。」
私達の神は派遣する神です。私達は、神の善い御心が行われるために(それを「神の国」と言います)、それぞれの場へと日々送り出されているのです。神に送り出されたあなたの場へ、今日もいってらっしゃい。一人ではありません。モーセと共にあったように、神はあなたと共にあります。
「主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる」詩篇121篇8節
12月11日(水)出エジプト記4章
11~12節「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」
私たちは何ために口を、喉を、与えられたのでしょうか?神の愛を伝え、神の善い計画を分かち合うためです。今日、あなたの口を、神のために用いてみましょう。話すことに不安がありますか?大丈夫。神様が共にあり、その言葉すらも教えてくださるのです。
「何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。 言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」ルカ12章11~12節
12月12日(木)出エジプト記5章
22節「主よ。なぜあなたはこの民に害をお与えになるのですか。何のために、私を遣わされたのですか。」
神に従った結果、状況が悪くなったように見える時があります。しかし、それでも、神に従って歩むのを、諦めないでください。「わたしが・・・しようとしていることは、今にあなたに分かる。」(6:1)時が必ず来るのです。今の困難の先には、神の計画してくださっていた最善が待っているのです。
「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」箴言19章21節
12月13(金)出エジプト記6章
30節「ご覧ください。私は口べたです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。」
悪魔は、自分や他人の弱さ、欠け、足りなさへと、目を向けさせます。一方、神はそれぞれの使命(7:1~5)へと目を向けさせます。あなたは、出来ない理由にばかり目を向けてはいませんか?もちろんリスク管理は大切です。けれど、それが神の使命を忘れさせてはいませんか?成し遂げてくださるのは、神なのです。
「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。」箴言21章1節
12月14日(土)出エジプト記7章
7節「彼らがパロに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。」
サラの超高齢出産、モーセとアロンの晩年の働き、これらは人間の力によらず、神ご自身の御力が表されるためのタイミングでした。私達の生涯は、最初は知識や力など多くのものを手にしていきますが、やがてそれらが手から離れて行くことになります。
けれど、あなたの内に、周りに、力がなくなっても大丈夫です。頼りとなるものが失われ、神にしか頼れなくなった時こそ、神の力が発揮される好機なのです。
「主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」第二コリント12章9節
12月15日(日)出エジプト記8章
15節「パロは息つく暇のできたのを見て、強情になり」
苦難の後の「息つく暇」は、悔い改めて神の言葉を受け入れるために神から与えられた時間でした。しかし、ファラオは、高慢のための、自己肯定のための時間としてしまったのです。
先週の聖書日課にも記しましたが、英国の説教者スポルジョンの挨拶は「悔い改めましたか?」だったそうです。悔い改めていない罪はありませんか?悔い改めとは、原語では方向転換を意味する言葉だそうです。悔い改めてから、神にしっかりと心を向けてから、あなたの一日を歩みだしてください。
「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」第二歴代誌7章14節
