12月8日のメッセージ

2024年12月8日 「たましいの糧〜クリスマス②〜」ルカの福音書2章

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8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。14 「いと高き

所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。

 

<それは本当の平和?>

クリスマスには2つの意味があります。2000年前のキリストの誕生を喜ぶこと、そして、キリストが再び来てくださるように、待ち望むことです。

 

今年ほど、平和の君(Price of Peace:イザヤ書9章6節)と呼ばれた救い主キリストを待ち望む年はありません。天使達の歌「いと高き所に、栄光が、神にあるように。」は讃美歌「あら野の果てに」のラテン語部分ですが、「天に栄光、地に平和」、と続きます。この歌のように地に平和を、と祈らされます。

一方で、ガザを含め中東情勢の悪化は続きます。ウクライナでの戦争も終わりません。歯止めをかけるはずの国々は、様々な都合で、暴挙に対して意見出来ず、各国で政治的混乱が続きます。何より停戦が、そして本当の平和が望まれます。

この聖書が記された当時は、「ローマの平和」(パックス・ロマーナ)と呼ばれ、人類の歴史でももっとも安定した時期です。権力は安定し、文化は発展し、識字率は20世紀並でした。

それなのに、天使は「地に平和あれ」と歌いました。当時の平和とは、ローマ帝国が刃によって諸国を支配し、搾取し、逆らうものは殺される、ローマにとっての平和だったからです。(エルサレムが焼かれ国が滅ぼされた紀元70年もPax Romanaなのです。)誰かが誰かを踏みつけ黙らせる、それは踏みにじり抑圧する一部の人にとっては平和かも知れませんが、踏みつけられる人にとっては平和ではありえない、それは神の平和ではないのです。(ガザでの悲劇も突然始まったのではなく、イスラエル国家がパレスチナを侵略し、殺し、人々を踏みつけていた偽りの平和が招いたのです。)

 

平和(ギリシャ語でエイレーネ)は、平安とも訳されます。世界から目を移し、自分を顧みた時、周囲に、内側に、平和や平安はあるかと考えさせられました。

 

<キリストの平和は、立場の弱い人が尊ばれる>

「2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。 2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、」

最初のクリスマス、一番に知らせを告げられたのは、羊飼い達でした。身体的な汚れや匂いもあったでしょう。仕事がら宗教規則を守ることができず、正しくない、卑しい人々と理解され、裁判で証言する権利も与えられません。まともな人間として、数えられなかったのです。

それなの、天使が、神様が、最初の知らせを告げたのは、不思議なことに学者でも宗教家でもなく王様でもなくお金持ちでもなく(つまりは正しい人や評判の良い人ではなく・・・)、当時神様からもっとも遠いと考えられていた人、神の民に数えられなかった羊飼いでした。

 

「2:10今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」

神は、「あなたがたのために」、と羊飼いに言います。人がどれほどあなたを拒もうが、見下そうが、わたしは決してそうはしない、と。

 

平和の君の誕生は、嫌われ、見下され、踏みつけられた者たちに告げられた。最も小さいものに光があたり、尊ばれ、顧みられる、これこそが神の平和なのです。平和の君キリストは、羊飼いに最初に出会い、異教徒の博士に礼拝され、悲しむ人、見捨てられた人、見下された人と共に過ごし、最後には十字架の上の強盗にまで会いに行きました。

今キリストが来られたら、ガザへ真っ先に足を向け、貧しさや病の中にいる人を訪れ、マイノリティで差別された人と共に食卓を囲むでしょう。力ない人が、痛みや悲しみを抱えた人が、尊ばれる、彼らの内にも外にもに平安と平和が生まれていく、それこそが神の平和、私達が祈り求める平和なのです。以前幼児園の園児たちのピアノ発表会に呼ばれました。つかえても、挨拶ができなくても、尊ばれ、喜ばれ、祝われる、そこにキリストの平和を見た気がします。

 

<本当の平和は、天が大切にされる>

天使は「天に栄光、地に平和」、と歌いました。天に栄光があることと、地に平和がもたらされることは、切り離すことは出来ないのです。

 

世界や社会を見た時に、多くの国や指導者が、自分達の安定、自分達の満足や都合のために(つまりは自分の栄光のために)動いているように感じます。自分達が偉大になるためなら、手段を選ばず、平気で、人を傷つけ殺し、奪い取り、約束を破り、偽ります。それを神の名を利用して行うのです。(十戒に、「主の御名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)とあるのにです。)

 

一方で、(基本的に聖書で「天」とは「神」を指すのですが)、私達が栄光を帰すべき神と、羊飼いは不思議なところで出会います。「11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。・・・16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。」

 

天にいるはずの神が、人間を放っておけずに、この世界に人としてやって来たのです。差別され、見下された羊飼いが会えるようにと、王宮でも神殿でもなく、民家ですらなく、家畜小屋のエサ箱に生まれてくれたのです。その方は、見捨てられた人たちと歩み、最後は十字架へかかってまで、隣りにいた強盗に天国を約束し、私達の罪の赦しを祈りました。

私達が拝むべきは、このようなへりくだりの神です。自分に栄光を帰したり、自分に都合が良い神を拝む時、私達の内と外には、キリストの平和はありません。

飼い葉桶に生まれた神として拝む人こそが、「御心にかなう人」で、羊飼いが喜び歌いながら帰って行ったように、その人の内側に、周囲に、キリストの平和が訪れるのです。

 「キリストにある平和が、いつもあなたがたの心と生活を満たすようにしなさい」(コロサイ人への手紙3章15節リビングバイブルみなさんにキリストの平和がありますように。

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