毎日の聖書11月4日〜

おざく台教会毎日の聖書 11月4日~

1日1章の聖書通読を用意しました。短い励ましの言葉と、それに沿った聖書から神様の言葉を添えました。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

11月4日(月)創世記17章

5節「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」

アブラムはアブラハム(多くの国民の父)という新しい名をもらいました。古代において名はその人の本質や人生を意味しました。そして、神と関わると名が変わり、生涯が変わるのです。

私達は改名はせず、洗礼名ももらいませんが、内面や歩みは神に出会い確かに変えられたはずです。あなたは神と出会いどう変えられましたか?あなたへの神の働きを、時間を取り思い返してください。

 

「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」ヨハネ1章12節

11月5日(火)創世記18章

21節「わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」

神はアブラハム、サラ、ソドムの町へ使いを送り、彼らの姿や応答を確かめられました。ある修道院では「お客さんが来た。キリストが来た。」という言葉が掲げられ、訪れる人は神の使いであり、私達の信仰の歩みはその人へのふるまいを通し確かめられるのだと語ります。日曜日の礼拝だけではありません。あなたが今日出会う一人一人への姿勢に、あなたの信仰があらわされるのです。

 

「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」マタイ5章16節

11月6日(水)創世記19章

29節「神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。」

ソドムの壊滅は痛ましいですが、アブラハムの存在ととりなしの祈りにより、ロトの家族だけは滅びから逃れました。あなたの信仰と祈りもまた、他の人の救いへとつながるのです。あなたは今日、誰の救いのために神にとりなして祈りましょうか?

 

「あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」ヤコブ5章16節

11月7日(木)創世記20章

4節「ビメレクはまだ、彼女に近づいていなかったので、こう言った。「主よ。あなたは正しい国民をも殺されるのですか。彼は私に、『これは私の妹だ』と言ったではありませんか。そして、彼女自身も『これは私の兄だ』と言ったのです。私は正しい心と汚れない手で、このことをしたのです。」

アブラハムが「神を恐れることが全くない」と考えていたゲラルの王アビメレクは、信仰者以上の誠実さを見せます。一方アブラハムは、サラを妹と偽り(腹違いの妹ではあるため全くのウソではありませんが・・・)、自分の保身に走りました。

この箇所では明らかに、異邦人のアビメレクのほうが、主なる神様に対して誠実だったのです。あなたは「この人は神を求めない」と誰かのことを諦めていませんか?神にとって不可能なことはないのです。あきらめず、神とその人を信頼して、祈り続けてください。

 

「それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。」使徒15章17節

11月8日(金)創世記21章

18節「行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」

神様はイシュマエルを見捨てず、彼は命を救い、アラブ人の祖としました。彼と彼の民は確かに神の愛と憐みの対象なのです。

残念なことに歴史の中で、イスラム教徒とキリスト教徒とは対立を繰り返しました(そこには双方の人間的欲望や罪が見え隠れします)。イスラエルでの武力衝突が報道でも取り上げられる通り、今日も続き、深刻さを増しています。様々な見方があるでしょうが、正しさの議論の前に、パレスチナに、そしてわたし達の周囲に、平和があるように祈りたいと思います。

 

「悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。」第一ペテロ3章11節

11月9日(土)創世記22章

8節「アブラハムは答えた。『イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。』」

神に従ったせいで犠牲を払ってばかりだ、そう思ったことはないでしょうか?しかし、神こそが大きな犠牲を払ってくだいました。その犠牲とは、神の御子、十字架で私達の罪の身代わりに死なれたイエス・キリストです。山の上の羊はこのキリストの予型です。神こそが大切な子を私たちのために捧げられたのです。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」ヨハネ3章16~17節

11月10日(日)創世記23章

6節「あなたは私たちの間にあって、神のつかさです。」

異国人アブラハムはヘテ人の目から見ると、「神のような主君」(口語訳)、「神に選ばれた方」(新共同訳)でした。アブラハムの生涯には失敗も多かったですが、晩年には他国人にこのような印象を与えました。それはアブラハム自身の才能や力ではなく、神様の素晴らしいご性質がアブラハムを通して表された結果でした。

同じ聖霊なる神様が、私たちのうちに住んでくださっているのです。私たちを通して神様の素晴らしさが今日も表されますように。キリストに似た私たちへと、今日も明日も造り変えられていくことが出来ますように。

 

「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」第二コリント3章17~18節

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