11月10日のメッセージ
2024年11月10日「たましいの糧22」
< コロサイ人への手紙 2章6〜10節 >
6 あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。7 キリストの中に根ざし、また建てられ、・・・・9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。
< ヨハネの福音書8章 >
8:2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。 8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、 8:4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。 8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」 8:6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。 8:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」 8:8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。 8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。 8:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。
<社会をキリストの光に照らす>
このコロサイ教会への手紙の1〜2章には『キリスト』という言葉が繰り返され、『キリスト讃歌』とも言われます。
コロサイ教会のある地方では、様々な神々が祭られ、様々な風習や価値観があり、キリストは神々の一人、価値観の一つ、と考える人もいました。また、ユダヤ教から信仰を持った人達は、十字架に加え、ユダヤ教の伝統や戒めも守らなくては救われないと、考えていた人もいました。様々な、風習、伝統、戒律、思想信条、それらには素晴らしいものが含まれています。(専門用語で、『一般恩寵』)しかし、様々な価値観が入り乱れる中で、私達を救い、導き、生かす、キリストを大切にして歩むよう、パウロは勧めます。
日本では衆議院選挙がありましたが、アメリカ合衆国でも大統領選挙が行われ、大統領や上院は共和党が占めることになりました。共和党支持層の一つに、プロテスタント福音派と言われ、聖書を字義通りに理解するグループがいて、イスラエル国家支援、妊娠中絶絶対反対、伝統的価値観(男性優位の家父長制)の維持、LGBTQなどマイノリティへの否定的態度、などいくつかの特徴があります。(日本と同じく経済も大きな焦点ですが、加えて思想信条に関わる面が投票に大きな影響を与えます。)
しかし、その主張が極端で差別的に聞こえ、、ニュース報道を見た人や生徒から、キリスト教は怖い、ひどい、といった感想も聞かれます。(学校のチャプレンは、聖書のイスラエルと、現在のイスラエル国家との違いを、繰り返し説明しなくてはなりません。)
聖書には、様々なことが記されていますので、当時の文化や状況、聖書の他の箇所との関係を無視して、自由に言葉を抜き出せば、聖書をもとに、どんなことでも言えてしまいます。どんな宗教でも作れますし、どんな神様にも出来ます。虐殺や差別さえも正当化出来てしまいす。ですから、今日の箇所を大切にしたいのです。
パウロは、様々な思想、価値観、宗教観の入り乱れるコロサイの人々に説くのです。
「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」2章9節
また別の箇所では「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、」(ヘブル1章1〜3節)
キリストこそが、その言葉が、その言動が、神のご性質が満ち、形を取って宿った、神の本質の完全な現れだと言うのです。私達は聖書を、牧師や教会や伝統の言う通りでもなく、自分の好みや都合で抜き出すのでもなく、キリストの言動を通して、キリストの光に照らして理解するのです。
例えば、旧約聖書で神を否定する人を石打ち刑にするようにとあります。旧約聖書にあるのだから従うかと言えば、私達はその一文を絶対化して人を石打刑にすることはありません。なぜなら、それはキリストの姿に反するからです。
青山学院大学宗教部長の塩谷直也教授(牧師)は以下のように語ります。「日本における最高法規は『日本国憲法』です。その場合、ある法律と憲法とが矛盾するならば、変更すべきは憲法ではなく法律です。」「教会は・・移り変わる時代の中で最も大事にすべきもの、キリスト者にとっての『憲法』とは何かを問い続けてきました。そしてその答えはいつの時代も『イエス・キリストの存在とその言動』であると確認してきたのです。」(「LGBTとキリスト教」平良愛香監修 2022年 日本キリスト教団出版局 P28)
その箇所に込められたメッセージはしっかりと受け止めますが、時代背景を踏まえ、他の箇所に照らし合わせ、何よりキリストの姿を思い返し、石を投げるのではなく、その人のために祈る選択をします。私達はキリストの姿に、言葉にこそ倣うのです。
ある国が、教会が、牧師が、みなさんが、これこそが神の意志だと主張すること、それはキリストの姿に、言葉に照らし合わせてどうか?問い続けたいのです。
<自らをキリストの光に照らす>
ヨハネ8章の姦淫の現場で捕らえられた女性の場面で、宗教家の関心事は、何が罪か、何が正しいかを定め、それを罰すること、それによって神の意志を代行することでした。
一方で、「イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。」(6節・8節)誰よりも、神の心を語り、神の意志を実現するはずの方が、この大切な場面で、砂いじりをしているのです。
まるで、子どもたちが、先生の話を聞かず、砂遊びをしているように、イエスは何が罪かを定めること、誰かを「罪人だ」と指差すこと、神の呪いを宣言し石を投げつけること(つまり裁き、罰し、切り捨てること)、には関心がないのです。イエスの関心はいつも、命に、生かすことに、救うことに、傷を癒やすことに、あるのです。
女性を責めて殺そうとしていた人達はイエスから、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と語りかけられます。自分達の正しさを超えて正しいイエスから、あなた自身はどうなのだ?と、自分の内側や、過去を照らされ、自分自身をあらためて見つめた時、沈黙し、石を置き、皆が去っていきました。(彼らはイエスの光に照らされ、本当の神のご意思に生きたのです。)
女性は、イエスから「あなたを罪に定めない。」と語りかけられ、唯一人を罪に定める資格のある正しい方から、戒律を超えた赦しの光で照らされ、赦しを受け取りました。彼女の姦淫が誤魔化されたのではないのです。イエスは「今からは決して罪を犯してはなりません。」と諭したように、姦淫がもたらす結果を憂い、忠告し、新しい歩みに彼女が生きるように、押し出すのです。
イエスの関心は、正しい人や立派な人の、善悪とは、罪とは、といった議論に加わることにはないのです。イエスは、伝統も、風習も、正しさも、(今日の箇所からすれば)旧約聖書の律法さえも基準とはしませんでした。(唯一イエスが指摘した罪は、神のように人を罪に定める宗教家の高慢さです。)
イエスの関心は、正しく歩めない人、悲しむ人、見下された人、苦しめられる人、その人達の側に立ち寄り添うことにあるのです。差別者と被差別者がいれば、傷つける者と傷つけられる者がいれば、踏みつけるものと踏みつけられた人がいれば、必ず弱く力がない側に、差別された側、傷つけられた側、踏みつけられた側に立つのです。
イエスは、当時の戒律を破ってまで安息日に病に苦しむ人を癒やし、言われました。
「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」(マルコ3章4節)
イエスは、見下された人、差別された人、邪魔者にされた人と食卓を囲み言いました。「
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2章17節)(注:聖書はすべての人を神から離れているという意味で「罪人」と言います。この文脈での罪人は、当時の宗教社会から、正しくない、神に呪われた、天国に入れない、とレッテルを貼られた人という意味です。)
様々な主義主張・思想信条はあってよいのです。アメリカでも、イスラエルでも、ロシアでも、戦争について、マイノリティについて、聖書を引用して、様々な主張がなされます。けれど、イエスの関心は、神のご意志は、命を守ることであり、苦しむ人を救うことであり、弱い者に寄り添うこと、赦すこと、苦しめられた人の側に立つことです。
パレスチナで、私たちの社会で、わたしたちの周りで、イエスの関心事は何でしょうか?イエスは誰の側に寄り添い守ろうとしているでしょうか?
時代や状況は聖書の時代から大きく変化しました。けれど、わたしたちの最高法規であるイエスは、変わりません。キリストならばどうなさるか?キリストならばどう言われるか?イエスの光で、国を、社会を、教会を、自分自身を照らし続け、つねに説い続け、悩み続ける私達教会でありたいと願います。
<今週の黙想> キリスト讃歌と言われるコロサイの手紙1〜2章を、もう一度ゆっくり読み、イエスの光で、ご自身を照らしてみてください。

