11月3日のメッセージ

2024年11月3日「たましいの糧21」

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< ピリピ人への手紙 4章6〜7節 >

6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 

 ダニエル書 >

10章 1 ペルシヤの王クロスの第三年に、ベルテシャツァルと名づけられていたダニエルに、一つのことばが啓示された。そのことばは真実で、大きないくさのことであった。彼はそのことばを理解し、その幻を悟っていた。2 そのころ、私、ダニエルは、三週間の喪に服していた。3 満三週間、私は、ごちそうも食べず、ぶどう酒も口にせず、また身に油も塗らなかった。・・・

12 彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。13 ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、・・・20 そこで、彼は言った。「私が、なぜあなたのところに来たかを知っているか。今は、ペルシヤの君と戦うために帰って行く。私が出かけると、見よ、ギリシヤの君がやって来る。

< 召天者記念礼拝によせて >

11月1日は教会の伝統では「諸聖人の日」、召天者(昇天者)記念の日です。

一般の宗教では、このような記念日に死者のための供養(私達が何かをすることで彼らが死後の世界で幸せを手にする)ことを大切にしますが、キリスト教では神が彼らに良くしてくださると理解するため(聖書でラザロのように、誰も弔ってくれず、供養もしてくれない人が出てきますが、神がラザロを慰めてくださるのです)、私達が死者のために何かをするのではなく、先に天に召された方々に良くしてくださることを感謝します。

また、教会を、地上で苦難の中でも懸命に歩むの戦いの教会と、すでに神のもとで慰めを受けている天の平安の教会、この2つで1つの教会と理解します。

こんな箇所があります。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブル12:1)ある神学者は、これを競技場にたとえ、モーセも、預言者エレミアも、使徒パウロも、ペテロも、先に天に帰った信仰者たちも観客席で、私達の歩みを大声援で応援している、と紹介しました。召天者記念の日は、天の希望を新たにし、信仰の先輩たちに励まされ、自分達の歩みを新たにする日です。

 

< 安心して何でも祈る >

信仰を持つ前と後とで、大きな変化があります。それは祈り、神に祈るということです。それまで祈りとは、年に一度の初詣や、受験前の合格祈願でした。けれど、信仰を持ってからは、食前に、朝や晩に、ことあるごとに、祈るようになるのです。

また、以前は、どのような存在に祈っているかも分かりませんでしたし、お願いばかりの一方通行でした。しかし、聖書での祈りとは、神との会話とも言いわれます。(ですから、ただ静まって心の耳を傾け聴いたり、聖書を読み神からの言葉に耳を澄ますことも大切です)

今日の聖書の言葉では、あなたの心を、願いを。神に知っていただきなさい、とあります。神が知ってくれる、受け止めてくれる、まるで、家族や友人に気持ちを打ち明けるような関わりが記されています。

祈りとは、綺麗で整った言葉を並べたり、立派な自分を示したりすることではありません。自分の願いや思い、それを神に知ってもらうことです。喜びでもいい、悲しみでもいい、疑問や葛藤でもいいのです。詩篇には、呪われますように、とか、罰が当たりますように、みたいな祈りさえあるのです。

 

そうやって、どんな思いであっても神に向くこと、神との関わりこそが、私達を生かすのです。歴史の信仰者達も、(イエス様でさえも)、神と語り生きました。喜びを分かち合い、疑問をぶつけ、悲しみを嘆き、時に神や人へ呪いの言葉さへ吐きながら、神と歩みました。(それをふまえ詩篇35、69、109篇などぜひ読んでみてください。)

 

祈りは、相手ではなく、私達自身を変える、と言った人がいます。まさに、祈りにより、神と過ごし、変えられ、慰められ、生かされ、支えられ、生きてきたのです。

 

< 祈りは必ず届いている >

一方である人は言います。祈ったって変わらないじゃないか、確かに、戦争や災害などは簡単にはなくなりません。戦争国の暴挙は、ひどくなるばかりです。
では、祈りとは、私達自身のため、自分の精神安定剤程度のものでしょうか?

いえ、迫害厄難に苦しんだユダヤの人々は、そうは考えませんでした。祈りを諦めませんでした。その根拠がダニエル書です。

ダニエルが祈ると、9章では天使ガブリエルが祈りを聴いてすぐに飛んできます。

10章では、ダニエルが祈ると、3週間も何も起こりません。それでもダニエルは祈り続けます。すると、天使は、やってきて、「あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。」

 

あなたの祈りは、祈り始めたときからちゃんと聞かれていた。私は、祈りに応えてやってきた。と言うのです。

さらにこの3週間ただ神は何もしなかったのではない、ペルシャの君、それが示す悪の勢力と自分は戦っていたというのです。そして、天使ミカエルが助けてくれているうちに今ここの来たのだと、ダニエルを励まし、また今から戦いに行く、と言って、忙しなく行ってしまうのです。
私はこの箇所から慰められました。ガザや中東での悲しみ叫ぶ達の映像を見る度に、奪われた子どもの命や将来が、ただの数字として(それも概数で)報道される度に、なぜ世界中で祈っているのに、虐殺を行う国家を止めてくれないのかと、無力感や憤りでいっぱいになっていました。(また、ガザだけでなく、世界中で、搾取、差別、抑圧、貧困で踏みつけられ、苦しめられている人がいるのです。)
けれど、諦めなくていいのです。祈りはちゃんと聞かれているのですから、神が祈りを聞き、私達以上に奮闘してくれているのですから。

ミサイルが降り注ぐガザでも、傷つき、飢え、恐れ、悲しみに暮れている女性や子どもたちを一人でも多く救おうと守り、寄り添ってくれている。

高慢と悪意により、命や土地を無慈悲に奪い取ろうとする国家においても、一人ひとりに働きながら、人間の渦巻く罪を必死に食い止めてくれている。

 

私達の神は、祈りを聞き、私達以上に今も奮闘してくださっている神です。

私達信仰者の特権とは、祈りを知っていること、祈りを聴いてくださり、奮闘してくださる方を知っていることです。

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