10月20日のメッセージ

2024年10月20日「たましいの糧⑳」

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< ピリピ人への手紙 3章20節 >

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

 

 ファミリータイム ルカの福音書16章 >

19 ある金持ちがいた。いつも紫色の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先に水を浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えてくることもできないのです。』

 

< 天を想う季節 >

11月1日は教会の伝統では「諸聖人の日」、召天者(昇天者)記念の日です。(諸聖人はAll Hallows その前日が10月31日が、Hallows eveつまり、ハロウィンです。)教会はこの時期に、先に天に召された方々を覚え、自らの天の希望を新たにします。

その際に引用されるのが、今日の聖書箇所です。「我が国籍は天に在り。」キリスト教の墓石などに刻まれ、死は終わりでなく、天への凱旋なのだ、そんな意味が込められています。天は確かに大きな希望です。

しかし教会が「我が国籍は天にあり」と、宗教活動だけを重視し、日々の生活や務め、家族を疎かにしてしまうことがあります。それはカルト宗教と変わりありません。

「我が国籍は天にあり」と、天国だけが素晴らしく世界は罪にまみれた意味のない場所だとし、貧困、差別、不平等、に目を向けず社会活動を軽視するの人もあります。けれど、イエス様は、貧しい人に寄り添い、人々に公正を求めました。

 

ある宗教の宗派では、聖戦で死ぬと天国で豊かな報いがあると教えられ、若者が爆弾を巻き付けて、自爆テロを行います。(靖国神社で祀られるからと、若者に特攻をさせた私達の国に似ています。)人間は天国という素晴らしいものさえも悪用するのです。

 

一方で、天という希望や安心に支えられていないと、困難や失望の際に刹那的に生きてしまったり、この地上の出来事が全てと考え、正義も公正も忘れ、罪のない命を踏みにじってでも力で土地を奪い取ろうとする国家のようになりかねません。
「我が国籍は天にあり」そのように歩んだのが、この言葉を記した使徒パウロであり、イスラム教の国であるアフガニスタンの方々とともに歩み、医療面やインフラ面で支えとなった中村哲さんだと思います。(『天共にあり』という本はおすすめです。)

この二人は、その功績が素晴らしく、誰が見ても感銘を受けるでしょう。けれど、「我が国籍は天にあり」という生き方は他にもあるのだと気付かされました。ラザロです。

 

< 国籍が天にある生き方 >

ラザロと金持ちの話は、例え話としてイエス様が語ったお話です。ラザロとは、「神は我が助け」という意味であり、例え話で、唯一名前がつけられた人物です。名前はそのそのものを表す文化ですから、イエスはラザロを、神は我が助けとして、生きた人と描いているのです。

「神は我が助け」、「我が国籍は天にあり」、ある人にとってそう告白することは、それほど難しくないかもしれません。それは素晴らしいことです。しかし、ラザロにとっては、そう言い続けること、そう信じ続けることは、困難なほど厳しい毎日でした。

 

ラザロは皮膚の病でした。病は身体的だけでなく、宗教的汚れと理解される文化です。人々から距離をとられるだけでなく、罪が原因と捉えられ、神に裁かれ呪われた存在として、指を指され、排斥され、差別されます。理解してくれる人、寄り添い支えてくれる人は誰一人いません。

 

宗教的に施しが奨励されていた文化ですから、人々の間に正義と公正とがあれば彼は少しは慰められたでしょう。しかし、食べ物さえ満足に与えられず、飢えながら、歓びや生きがいとは無縁の、貧しく、頼りなく、犬以下の存在として放り捨てられていました。(「寝ていた」とは、投げられていた、という言葉です。)
一方で金持ちに代表される、地位の高い人、宗教的生活ができる余裕のある人、健康で順風満帆な人は、神に祝福され、天国へと一番に入れられる存在と理解されていました。

 

人々は見向きもしてくれない、助ける力のある人も一欠片の愛も誠実も示してくれない。それでいて、自分たちこそは天国に迎え入れられるのだと、「我が国籍は天にあり」と勝ち誇り、ラザロを、罪人で呪われた人と、見下している。

その不公平さ、理不尽さの中で、信仰を捨てたり、今日でいう特殊詐欺・闇バイト・緊縛強盗のような、悪や不正に走るとも出来たでしょう。(そのような刹那的な犯罪に走り身を滅ぼす若者も、生きづらさや被害者意識を抱えているようです。)

 

けれど、ラザロはそういった道を選ばず、自分の目の前に置かれた道を、(本人には違う道を歩みたかったでしょう)歩み抜き、自分の国籍があると信じていた、天へと迎えられたのです。

 

この箇所から私(牧師)は「ラザロには、当時の人が天国の保証と考えた、豊かさも、善行も、宗教行為もありません。けれど、「神は我が助け」と信じた、私達もただ信じるだけで良いのです。神様は憐れみ深いのです。」とお話してきました。それは決して間違いではない。究極的に言えば、一度神を信じれば、どれだけ私達が神に背を向け、信仰を捨てようとも、神のほうが私達を見捨てない。これこそが福音です。

 

けれど、ラザロは福音に救われただけでなく、福音に生きた。一切の願いが叶わず、支えがなく、不条理の嵐に翻弄されたながらも、「神は我が助けと」、「我が国籍は天にあり」と言い続けた。天の希望があるからこそ、自分は神のものだからこそ、不信仰も、悪も不正も選ばなかった、これはただ事ではないと思います。

 

私の曾祖母千代も、戦前の北陸地方という因習の強い土地で、信仰を持ちました。親族の中から耶蘇教は出せないと、洗礼は受けられず、教会はいけず、暗い蔵の中や、子をあやしながら、隠れて聖書を読み続けました。結核にかかり、5歳の娘を残して、死を迎えます。「バチがあたったのだ」と散々に言われたでしょう。

それでも、「神は我が助け」だと、「我が国籍は天にあり」と、望みを持ち続け、「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りなさい。」(ローマ12:12)と娘に言い残して、天へと帰っていきました。

 

私達は、ラザロを、私の曾祖母千代を、天国だけが希望だった哀れな人、と考えるかもしれません。

 

しかし、イエスは「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21)と言い、見下された人を示して「取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。」(マタイ21:31)と、天は共に在り、内にあるのだと、宣言しました。

貧しく、頼りなく、喜びの見いだせない、地獄のような毎日であっても、天がその日々のただ中にあり、すでに天に入りその素晴らしさを味わっている、というのです。きっと、ラザロも曾祖母も、天とともに、神とともに、希望と誇りを持って生きていたのだと思います。

天に属するものとして、困難や誹謗中傷に吹き飛ばされず、愛と誠実を選び続ける、これもまた、「我が国籍は天にあり」という生き方なのだと思います。

 

あなたにとって「我が国籍は天にあり」ということは、どのような意味でしょうか?

 

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