10月13日のメッセージ
2024年10月13日「たましいの糧⑲」
< エペソ人への手紙 5章25、31〜32節 >
25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。・・・
31 「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
< ファミリータイム 創世記15章 >
7 また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」8 彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」9 すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」10 彼はそれら全部を持って来て、それらを真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし鳥は切り裂かなかった。・・・
17 さて、日は沈み、暗闇になったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。18 その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。
アブラハムと神様との、神と人との最初の契約のお話です。(ちなみに7章で、ノアとも契約をし、その証が虹でした。)当時の契約では、約束をする者同士が、半分に切られた動物の間を二人で通ります。これは、もし契約を破ればこうなるぞ(命はないぞ)ということを意味しました。(指切りげんまん嘘ついた針千本飲ます、に似ています。)
神様とアブラハムとの契約では、「煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。(創世記15:17)のです。
神様だけが2つに切り裂かれた動物の間を通ります。神だけが責任を負う、神だけが契約を全うし、約束の祝福を人間にもたらす、というのです。
そして、神様は、アブラハムの子孫が、どれほど、約束を忘れようが、裏切ろうが、失敗しようが、耐え、我慢し、見捨てず、見放さず、手を伸ばし続けました。
最後には、人間の積み重ねた罪と悪を背負い、イエス・キリストが身代わりに十字架にかかりました。聖餐式では、パンを裂き、キリストの裂かれたからだ、といいますが、創世記15章の2つに裂かれた動物のように、契約に背いた結果も、神の側ですべて負ったのです。そうまでして、人間と共にあろうとする、それが私達の神なのです。
< 愛の契約・一方的な約束・一方的な誠実 >
ファミリータイムでは、神様と人との契約のお話をしました。聖書は、旧約聖書と、新約聖書とに別れています。翻訳の「訳」ではなく、契約の「約」です。聖書は、神が人とたくさんの契約を結びます、聖書は神と人との関係の処、契約の書だとも言われます。
契約というと、冷たい血の通ってない、印象を受けますが、ただの約束でなく、絶対に破棄されない、命をかけた約束というニュアンスです。
今日の箇所で、その契約関係が夫婦の結婚関係に例えられています。夫がキリスト、妻が私達です。神を信じるとは、キリストと結婚すること、ともいわれます。
そして、夫は、キリストが教会(私達)にしたように、妻を愛するように、妻は夫を尊ぶように、と命じられています。これは、当時の女性の立場が低かったため、神を知るあなたは、そのようであってはならない。女性を尊び、女性にへりくだり、命を捨ててまで愛しぬくようにと記されているのでしょう。
聖書では、互いに愛し合う際も、自分の方法ではなく、キリストが愛したように(ヨハネ13:34)、と言われていますし、仕事の関係でもキリストに仕えるように仕えよ(エペソ6:7)、とあり、人間関係の基準はキリストがしてくださったように、キリストに対してするように、互いに愛し仕え合うのです。
ファミリータイムでお話したように、神と人との関係は、一方的で、不平等です。神だけが責任を取り、神が一方的に誠実であり、私のために命を捨てる、私の状態によらず決して見捨てず、見放さない(ヘブル13:5)そのような契約です。神はそれほどまでに人を愛し求めている。
その一方的で、無限で、不変の愛で愛せよとは、とても難しい。けれど、神に愛されたものとしてその百分の一でも、数百万分の一でも、大切な人に向けるなら、その人との関係は、互いを支えるものとなります。
結婚式で、病める時も健やかな時も、富む時も貧しい時も、と言います。状況はたしかに大切です。良いことが多く起こり、大変なことは少なければ少ないほど良い。けれど、本当に人を支えるのは、本当に人を生かし創り変えていくのは、神の愛が少しでも反映された人間関係だと感じています。
< 本当の約束の地 >
神様は子どものいなかった年老いたアブラハム(これは当時の文化ではアブラハムは失敗者であることを意味しました)に、子孫が星の数のようになること、カナンの地で増え広がることを約束しました。
子孫と土地、これは古代の人が何よりも求めたものです、とくに土地は安定・安心の源であり、聖書では土地は神の祝福とほぼ同義語でした。
一方で、この土地は、現在のパレスチナ地方にあたり、この旧約聖書の文章を根拠に、自分たちの所収権を主張し、侵略・抑圧行為を正当化する人たちもいます。
けれど、聖書はこの地上の土地が神の祝福の全てではないと言うのです。
イエス様は、枕するところもありませんでした(マタイ8:20)。
モーセは、誰よりも神と親しく歩みましたが、約束の地に入ることはありませんでした。
宗教的役割を担うレビ族は土地が所有できず、こう言われます。「主が彼らに約束されたとおりにイスラエルの神、主が彼らの相続地である。」(ヨシュア記13章33節)
詩篇の詩人は告白します。「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。」(詩篇16篇5節)
もちろん、神の祝福が土地として、土地に代表される、豊かさや、成功や、安定として、目に見えて手で触れられる形として与えられることもあるでしょう。
けれど、神でなく、神の祝福を第一に求めてしまうと、人はどこかおかしくなってしまうのです。(現在の中東を見れば明白でしょう)
ユダヤ人は、神こそが彼らの相続地であった時、国を持たずとも、迫害の中でも、『アンネの日記』のアンネ・フランクや、『夜と霧』のV.E.フランクルに代表される素晴らしい人間性を発揮しました。ところが、国を得たとたん、神を忘れ、人間性を失い、自らが恐ろしい侵略者・迫害者へとなり下がりました。
どうか忘れないでください。アブラハムに約束された本当の土地とは、神の祝福とは、恵みの神様ご自身であり、本当の約束の地、恵みの神様とともに住む天の御国なのです。
だからこそ、神は、まるで結婚のプロポーズのように、日々十字架の釘の傷のある手を私達に差し出すのです。信仰者とは、立派な者でも、悟った者でもありません。ただただ、その手を取った者、キリストの愛を受け入れた者です。私達の救いも、私達の清めも、キリストがするのです。
キリストを受け入れておられない方、ご自身の前に差し出された手について、真剣に考えてみてください。
キリストをすでに信じつつも、自分なんてと思う方、あなたが誓った相手は、あなたの状態によらず何が会っても契約を守り抜く神であることを、思い返していください。キリストは、あなたが握り返した手を、決して離すことはないのです。