10月6日のメッセージ

2024年10月6日「たましいの糧⑱」

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< エペソ人への手紙 2章8〜10節 >

8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。
9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

 

< ファミリータイム ルカの福音書19章 >

1 それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群集のために見ることができなかった。4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

 

< あたなたはどんな人? >

「ジョハリの窓」という、自己理解のための4つの区分があります。
1 自分も人も知っている自分

2 自分だけが知っている自分
3 自分には見えていないけれど、人が知っている自分
4 自分も、人も、知らず見えていない自分

4は、どうすればよいのだ、と考え込んでしまいますが、キリスト教的に言えば、神様だけが知っている私達、と言うことが出来るかと思います。このエペソ人への手紙は、教会とはこんな場所だよ(教会論)、ということがテーマです。教会とは、神様が私達をどう理解しているか、誰も知らない自分を知ることができる、場所とも言えます。今日は、自分も知らず、人も知らなかった、自分に出会った、ザアカイのお話です。

 

ザアカイは、「正しい人」「清い人」「義である人」という意味の言葉です。日本語の「正(タダシ)」や「清(キヨシ)」にも似ていますが、ヘブライ文化において、名前とはその人のありよう、本質を表すものでした。

 

けれど、誰もザアカイのことを「正しい人」とは見ません。彼について外側から分かるのは、「取税人のかしら」、「金持ち」(2節)、「背が低い」(3節)、「罪人」(7節)、ということであり、社会的にも、宗教的にも、身体的にも、人々から嫌われ、軽蔑され、神が見捨て、神に罰せられる存在として理解されていました。

 

では、ザアカイ自身が自分をどう見ていたかは、分かりません。宗教家であるイエスを木に登ってまで見ようとしたくらいですから、小さな宗教心はあったのかもしれません。けれども、走り、木に登るなど(尊厳ある中東の男性は走ったり、木に登ったりはしないのです)、自分への自信や誇り、自尊感情は強くなかったようです。取税人のトップで、金持ち、自分が苦しめている人々の悲しみを見ても、人々の反感をかっても、自分を変えることはできず、自分自身を、信仰を、諦めていたようです。

私達も、ザアカイのように小さな良心や宗教心は持っているかもしれない。けれど、自分自身に失望や不満を抱いたり、自分の価値を小さく見積もったり、自分はこんなものだ、という自己理解で、変えられることを諦めたりします。

自分で自分をどう見るか、人が自分をどう見るか、それは大切です。けれど、私達以上に、私達を知る方、ほんとうの意味で私を理解する方がいるのです。

 

<近寄り、下に立ち、見上げ、名を呼ぶ方>

とても印象的な場面があります。イエスを見ようと、木の上に登ったザアカイ、その場面で、イエスは、ザアカイの登った樹の下まで近づいて来ると、下からザアカイを見上げ、名を呼び、あなたの家に行くと、言うのです。人々は驚き、罪人の家に行くなんてと、呆れ果てます。

 

理解するとは、Understandと言います。イエスは、下に(under)立って(stand)、ザアカイに話しかけました。神でありながらへりくだってザアカイと関わりました。今までは、背が低く、罪人とされたザアカイは、身体的にも、宗教的にも見下されていました。けれど、イエス様は、ザアカイを見上げ(英語ならば、look up to は尊敬するという意味です。) 声をかけました。「ザアカイ」と、「義なる者よ」と。神に受け入れられた者よ、と。
understandのより原語的な意味は、近くに立つ、ですが、誰も近寄らなかった彼のところに、イエスは自分から、近づくのです。それは、相手が価値ある存在であるということの、彼が神に受け入れられたことの表明でした。

(わざわざ、木の種類がいちじく桑と書いてあるのは、葉が大きく茂っていて身を隠すのに最適であった、それでもイエス様が近づいて、見つけ出してくれた、という解釈もあります。)

 

周囲の人も、ザアカイ自身ですら、誰もそのようには見ていなかった。イエスのザアカイへの理解は、ザアカイがしていたような『取税人のかしら』、『罪人』、神に呪われ拒まれる者ではなかったのです。イエスは、彼をザアカイ、と、義人と、神に受け入れられたものと呼びます。

そして、『アブラハムの子』、つまり神の祝福を受けるべき存在だと(神ののろいではないのです!)、さらには、祝福を広めるべき存在だというのです。
「あなたがたは・・・神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける』と言って、あなたがたの父祖たちと結ばれたあの契約の子孫です。」使徒の働き3章25節

 

イエスは自分自身を諦めた人、人から諦められた人、に近づき、見つけ出し、友となり、本当はその人がどのような存在かを身を持って示しました。

もちろん、問題がある、罪がある、過去の傷がある、それは事実です。けれども、今日の箇所に有るように、神が心を込めて造った存在であり、善い行いをするようにと、期待されていると語るのです。

 

ザアカイは、キリストの理解に触れ、本当は自分が何者であるかを知り、新しく歩みだしました。

 

人は善い行いで救われる(神に愛され受け入れられる)のではない、恵みのゆえに愛され受け入れられたから、善い行いに生きるのです。ザアカイは新しく歩むのだと、宣言しました。

そんな新しい自分を知ったザアカイを見て、イエス様は、「救いがこの家に来た」、と言いました。神の救いとは、呪われた、見下された場所へと、近づき、見つけ出し、そしてそこから広がっていくのです。

 

今日の聖書箇所も、ファミリータイムの箇所も、選ぶか迷いました。教会に通う方には、お馴染みすぎる箇所だからです。もう知っているよ、当たり前じゃないか、そう感じた方も多いでしょう。

けれど、そう思えることは、どれだけ素晴らしい、幸せなことでしょうか。思い出していただきたいのですが、初めてこの箇所を聞いたときは、少なくとも私は、驚き、理解できず、考え込みました?それまで、考えてきたことと、聞かされてきたことと、あまりにも違うからです。

教会とは、自分でも気づけない、誰も教えてくれない、神様の見方を、理解を、知ることができる場所であり、それにのっとって、一人ひとりが見つけ出され、寄り添われ、見上げられ、尊ばれる場所です。

 

あなたは、わたしたちは、神が心を込めて形づくり、命の息を吹き込んだ、大切な尊い存在です。その理解に、キリストの理解に立ち、安心と誇りを持って、新しい週も歩んでください。

 

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