毎日の聖書9月30日〜

おざく台教会毎日の聖書 9月30日~

1日1章の聖書通読を用意しました。短い励ましの言葉と、それに沿った聖書から神様の言葉を添えました。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

9月30日(月)ヨハネ黙示録 4章
11節「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」ころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」

ウェストミンスター小教理問答「問1.人のおもな目的は何ですか?」「答.人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に 神を喜ぶことです。」神の善い御心が私達一人一人を通して、今日もこの世界に行われますように、

10月1日(火)ヨハネ黙示録 5章
13〜14節「また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にありますように。」また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。」

カトリック教会は礼拝の中で跪き、東方正教は五体を地面に投げ出して拝みます。神の前で身も心も低くするのです。私たちが拝む方は、誰よりも低くなり、十字架にまでかかられた方なのですから。あなたの方法で身を低くし神を礼拝してみてください。

10月2日(水)ヨハネ黙示録 6章
15〜17節「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。 御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」」

神は愛の方ですが、その正しさと聖さのゆえに、罪と悪を放っておくことは出来ません。それなのに、私達人間は、神ではなく罪と悪を愛し、手放そうとしないのです。

罪を憎んで人を憎まず、と言いますが、神は罪を憎んで罪から人を救い出すのです。罪と悪を手放し、すべての御怒りを十字架で引き受けてくださった方、イエス・キリストの差し出す手を、私達がとれますように。

10月3日(木)ヨハネ黙示録 7章
16〜17節「 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」

やがての天の御国の描写ですが、ある意味では今すでに私達のうちに実現しています。忘れないでください、今日もキリストがあなたを牧し、いのちの水の泉に導いてくださることを。主は今日もあなたを導かれます

10月4日(金)ヨハネの黙示録 8章
5節「それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。」

難解な個所ですが、確かなことは、地への裁きが必ずあるということです。この宣言は迫害に苦しむ信仰者をどれだけ勇気づけたでしょう。ですから「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。」(ローマ12:19)

10月5日(土)ヨハネの黙示録 9章

20〜21節「これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。」

エジプトへの10の災いを連想させる章です。エジプト王ファラオは、数々の言葉や奇跡でも悔い改めませんでした。しかし災いとは、悔い改めへの招きでもあるのです。悔い改め、とは原語では、方向転換を意味する言葉です。日々、瞬間瞬間、目と心と魂を、神様へ向けつつ歩めますように

10月6日(日)ヨハネの黙示録 10章

7節「第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」」

宗教改革者ルターは、「明日キリストが再臨するかのように生活しなさい。」と語りました。明日キリストが来られるとしたら、今日一日をどのように過ごしましょうか?

 

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