9月29日のメッセージ

2024年9月29日「たましいの糧⑰」

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<ガラテヤ人への手紙>

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。  5章22〜23節

 

<ファミリータイム>

4:5 だが、カインとそのささげ物には、目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。4:6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。 4:7 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」 4:8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。      創世記

 

<本当の自制とは罪を抑制すること>

聖書のガラテヤ書には、「御霊の実」(神が私達にもたらす大切な8つの性質)として、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が挙げられています。

ロシアのウクライナ侵攻、イスラエル国家(による過剰なパレスチナやレバノンへの攻撃、など、様々な戦争や分断を見ていると、「自制」をこの世界に与えてください、と祈らされます。

「自制」(Self Control)の原語は、エン(中に)とクラトス(支配)が合わさって出来た言葉で、内側の深いところまで、、支配が及ぶという意味です。

一般には、自制心の有る人とは、冷静で、論理的で、規則正しく、長期的で、計画的で、取り乱さない、という意味で理解されます。しかし、戦争を仕掛ける国は、論理的な言葉を述べ、計画的に、規則正しく、落ち着いてミサイルを降らせ、民間人やこどもの命を奪って、その苦しむ姿を見ても極めて冷静です。これは自制ではありません。自らをコントロールしているようで、人間の内側にある罪に、罪の性質に動かされているのです。自制とは自分を制することでなく、自分の罪を制することです。

本当の自制とは、私たちの内側にある、罪深さ、高慢さ、悪への傾向、排他性、残酷さ、欲望や欲求、それらを制することです。人には罪の性質がある、けれど、それが外へ出て害を及ぼすのを制するということです。

 

カインとアベルの箇所、神様はカインに。「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている」(創世記4:7)と語ります。罪は、私たちの心や魂の深いところに根を張り、時にゆっくりと蝕み、私達が余裕を失う時に激しく表れ、狂わせようと待っています。罪とはカインや、戦争国の問題だけでなく、私達の問題でもあります。だが、あなたは、それを治めるべきである。」。どのようにでしょうか?

 

<人とは顔を上に向けてこそ>

人類最初の殺人と言われる『カインとアベル』では印象的な言葉が繰り返されます。「カインはひどく怒り、顔を伏せた。 そこで、主は、カインに仰せられた。『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。」(創世記4:5~6)

カインは『顔を伏せ』ていたのです。人間という言葉は、ギリシャ語でアンスローポス。『顔を上に向ける者』という言葉です。

人として、天に、神に向いているはずのカインの顔が、伏せられ、一人自分の中で思い煩っていた。妬みと恨みの中で、横にいるアベルに、怒りの顔が、その罪が向いていった。そして、人間らしさを失い、まるで獣のように、自分の弟を手にかけるのです。

 

私達は、自分の心に一人静かに向き合うことも大切です。人に顔を向け、人とのかかわりに生かされもします。しかし、神様との(縦の)関係が土台にないと、時に自分を見失ってしまうのです。神に目を、心を向ける時、私達は人間らしくあれるのだという事を教えられます。

 

少々補足ですが・・・一方で、自分は神を見上げていると考えた人が多くの罪を犯すこともまたあります。自分は神を礼拝する正しい存在だ、そう思いながらパリサイ人たちは、イエスを十字架につけました。パウロはそう信じて、クリスチャンを迫害し殺しました。イスラエル国家はミサイルを打ち込み続けます。キリスト教国は歴史を通して、神を礼拝しながら、虐殺と蛮行を行いました。

そのことを考える時に、御霊の実とは、ただ宗教的生活をしたり、礼拝したりすることではなく、罪人として、自分のために十字架にかかってくださった方・キリストを見上げる、このことでしか生まれ得ないのではないかと思わされます。(十字架を見上げながらミサイルを打てる人などいるでしょうか?)

カインはそれまでも礼拝行為はしていましたが、アベルを手に掛けた後、本当の意味で神と出会います。そして、「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。」(14節)と告げます。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩篇51:17)

カインは、自分の罪を知り、はじめて神としっかりと向き合ったのです。逆に言えば、高慢なままでは本当の意味で神と出会えないのです。

 

<神が求めている、あなたの顏を上に>

私達はどんな時も、どんな状態でも神に目を向け続けたいのです。

パウロが記した別の手紙にはこんな箇所があります。ピリピ人への手紙4章6〜7節。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

 

ここには、立派な心で神に向かえとは一言も記されていません。思い煩ったままでいいから、どんな身勝手な願い事でもいいから、神に知ってもらいなさい。神は全てのことをごご存知なのになぜ?それはあなたの顔が、心が、上に向くことが大切だからです。

 

私たちが見上げると、神様と目が合います。親が子を見るようにずっと私たちを優しく時に心配して見守っている天の父の視線に気付くわけです。そして一緒に、私達の内側の問題も、外側の問題も取り扱ってくださり、「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:7)

 

何より、神様ご自身も私たちの顔を求めているのです。神様が言った、7節の「正しく行ったなら受け入れられる」(新改訳2017の欄外別訳:「顔を上げられる」、という不思議な言葉。もしこれが立派さを求めた条件なら、誰一人神様に顔向けできる人はいないでしょう。しかし、この「正しく」という言葉は、喜んで、嬉しくて、という意味を持つ言葉です。さらに原語では反語表現が使われていて、「喜んで行っているなら、顔を上げられないはずがないだろう?」とも訳せます。

神様に食物を与えられている、日々生かされている、その感謝と喜びをもって、アベルは上を見上げて歩んだのでしょう。そして、神様は、アベルのささげ物でなく、アベルの心そのものを喜んだ。神様はカインのささげ物を拒んだのではなく、カイン自身の心を、カインの顔そのものを求めていたのです。

 

聖書の詩篇の中には、自分の恨みや怒りや悲しみを、好き放題神にぶつけるような詩篇がたくさんあります。(呪いの詩篇と言われます。)時には神を非難する言葉まであります。なんで聖書にこんな内容が・・・と思わず読み飛ばしたくなります。でも正直でいいのです。自分の中で思い煩い、罪の心に餌をやるよりは、その罪に満たされ、誰かを傷つけるよりは、顔を上に向け、正直に神にすべて持って行けばいのです。呪いの詩篇は、最初は不満や怒りを述べていますが、次第にその罪の心が溶けて消え去るかのように、感謝や賛美の歌に変えられていきます。ですから、どんな時も、どんな状態でも、愛の神様に信頼して、罪や弱さを隠さず、神に顔を向けてほしいのです。

 

カインの話には続きがあります。弟を殺して初めて、しっかりと顔を天に向けたカインは自分はもうだめだ、他者から責められ殺される(14節)、と言います。しかし、神はカインが復讐されないよう彼を守ると誓います(15節)。
正しくなくても、立派でなくても、良いのです。私達を愛し求めておられる神は、呼びかけます。 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」(イザヤ45:22)私達が神を仰ぎ見たときこそ、罪からの救いと守りがあ

るのです。

 

<今週の黙想> 今週を祈りの週としてみてください。何かあるごとに心を上に向け、十字架のキリストを見上げ、あなたの喜びも、悲しみも、失敗も・・・祈りを通して、神様に持って行ってください。

 

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