9月22日のメッセージ
2024年9月22日 おざく台キリスト教会 「主の祈り①」井本香織神学生
「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。』」マタイ6章9節
皆さんは、「主の祈り」と、どんなふうに出会いましたか?先日の夫の祖母の葬儀が聖公会(英国国教会)で行われました。納棺の際、葬礼拝のなか、火葬の前、火葬から教会に帰ってきた時の祈り、全ての中で「主の祈り」が祈られているのには驚きました。そして病床にいて、意識がもうろうとして私たちが来ていることもわからない様子だった祖母が「主の祈り」を高々と祈っていたことは生涯忘れられないだろうと思います。
1、あなたがたは、愛されている神の子どもなのです。だから、こう祈りなさい。
イエス様は、山に登り、集まってきた多くの人々に、様々なことを教えました。例えば、「あなたの敵を愛しなさい。」とか「人からののしられても、喜べ。」など、基準が高すぎて、とても自分には実現不可能だと思われる内容かもしれません。しかし、エレミアスという神学者はこのように教えてくれました。山上の説教には、大事な前提があります。「あなたがたは、神に愛されている子どもなのですよ。だから、」という大前提です。この山上の説教の中に、「主の祈り」があるのです。主の祈りに省略されている前提はこうです。「あなた方は、愛されている神の子どもなのですよ。だから、こう祈りなさい。」このような前置き込めて、イエス様は主の祈りを教えてくださいました。
2、「天に目を向けるように」との
イエス様は、私たちが顔を上げて、「天」を思うようにと励まします。聖書を書いた古代ユダヤ人は、畏れ多すぎると考えて「神様」という言葉を避けて「天」という言葉を使いました。「人間」は新約聖書が書かれたギリシア語で、「アンスローポス」という言葉です。「アナ」(上に)プロスオーポン(顔)「顔を上に上げるもの」と考えられていたようです。私たちは、日常の生活の中で、時には心も体も疲れを覚え、心が騒ぎ、いつの間にか下を向いて狭い視野と自分中心でしか物事をとらえることができなくなりがちです。「天にまします」と祈り始めるときに、狭くなっている視野から解放されて、はるかに大きな神様に心を向けることができます。
3、「お父さん!」
イエス様が生まれる前に記されていた旧約聖書の中では、神様のことが、様々なイメージで伝えられています。「創造主」「王」「万軍の主(人、天使、全てのものの主という意味)」「義なる神」「聖なる神」「羊飼い」そして旧約聖書の中にも少ないですが、神様が「父」のイメージで語られているところはあります。
イエス様は、神様ってどんな方か?をみんなに伝えるために神様は良い「お父さん」のような方だよという表現を選びました。イエス様は、「あっば!(パパ!という幼児語)」で、幼子のような素直な、ただただ信頼する心で、神様に祈り続けました。時として、私たちの人間的な父親のイメージだけでは理解の限界があって、神様のイメージを間違うことになります。この天の父は、私たちのほんとうの幸せを願い、真の必要なものをご存じで、それを与えたいと心から願っておられる方です。イエス様は、ガリラヤの人たち、宗教的にも見下されていた人たち(徴税人、遊女、罪深くて、神から離れ、愛されるにふさわしくないと思われていた人たち)に、「天のお父さんがいるんだよ。」と何度も何度も教えたのです。
イエス様は、「放蕩息子」のたとえ話で、天のお父さんと私たちの姿を教えています。弟息子は、お父さんに対して、「あなたが死んでくれたら、自分は財産をもらえるのに。」という非常に心痛む態度をとって、故郷を出て遠い国へと旅立って行きました。「わたしは神の愛を必要としない。」承認と愛情、快楽を与えてくれる存在を求めて、ウロウロとさまよう私たちは、弟息子のように、いとも簡単に、自分が神の子どもであるということを忘れてしまいます。「あなたはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と私たちに語られている呼びかけが、実感できなくなってしまうのです。
ですから、イエス様は、いつでも、どこにいても、私たちが、自分が神の子どもであると思い出して、それを味わうために「お父さん!」と祈るようにと教えました。この父の、神様のところには、豊かな喜び、渇望の満たし、安心感があります。無礼を働いてきた弟息子にかけ寄り、憐れに思い、抱き締める父は私たちにもいつでもそうしてくださるのです。私たちはしばしば、この父とは反対の態度をとってしまいますし、人からも取られてしまうこともあります。(避けて、無関心、受け入れない)そのような中で疲れきった私たちを、父はいつでも抱き寄せ受け入れてくださるのです。
4、「私たちの」父よ!
よく、中学生や高校生の聖書の授業と試験で、引っかけ問題として主の祈りを出題するときに、「我の父よ」か、「我らの父よ」なのかを選ぶ問題を出題します。もちろん正解は「我らの父(私たちの父)よ」です。神様は「私の神、私の父」であると同時に、「私たちの神、私たちの父」なのです。
「人が独りでいるのは良くない。」と創世記の時から、語っている神様は、私たちが、人とのつながりを大切にして生きるようにと励ましてくださっています。そして、イエス様は、「私の父!」ではなく、「私たちの父よ」と祈るようにと教えているのです。
私たちは、どのような時に、「私たちの父よ!」と言えなくなってしまうのでしょうか。放蕩息子に登場する兄息子の姿から、私たちは学ぶことができます。財産を遊んで使い果たし、ボロボロになって帰ってきた弟息子を迎え入れたお父さんは、喜びのあまり、すぐに弟息子を迎える歓迎パーティを開きます。ところが兄息子が畑で働き家に戻ると、何も知らないうちに、パーティが盛り上がっておりました。「え?僕はこんなパーティがあることは聞いていないよ。」兄息子は強烈な疎外感を感じました。自分が知らない間に、もようされていた宴に、兄は激怒します。誰もが「自分は大事にされたい。」という欲求を持っています。それが満たされない時に、心がかき乱されてしまうのです。兄息子は、寂しさ、自分がのけものにされたのではないかという怒り、ふてくされ、強情で不機嫌な態度をおさえることができませんでした。そして、そのような態度が、他の人との親密で温かな交流を、ますます難しくしてしまうのです。(このメッセージを準備している私自身の内に、兄息子のような性質があることを、強く認識して心が痛みます。)イエス様が話してくださったように、「自分のうちに兄息子のような部分がある、自分が不完全である。」という現実を受け入れながら、私たちは地上の歩みを続けていきます。
イエス様のたとえ話は、父親が兄息子にかけた言葉「子よ、おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部お前のものだ。・・・お前の弟は(略)いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」のセリフで終わっています。お兄さんはこの後、どうしたのでしょう?お兄さんの反応と物語の結末は、読者にゆだねられているのです。皆さんなら、この物語をどう締めくくりますか?
N H K朝ドラ「虎に翼」で主人公が再婚をします。再婚した夫に大学生の連れ子がいるのです。彼女は今まで聞き分けのいい子のように振る舞い「すん!」として本音を言わず、寂しい思いを隠してお父さんに甘えてくることができませんでした。ある時、彼女は、小さな子どものように「私のことを見てよ!」と感情を爆発させます。彼女は、父からの愛情を一身に受ける必要がありました。娘がひとしきり怒りをあらわにし、泣いた後、お父さんは娘にこう語りかけます。「のどか、何が食べたい?」彼女はその後、お父さんからの愛情を受け取り、落ち着きを取り戻して穏やかになっていくのです。
話を放蕩息子に戻します。息子たちは2人とも不完全です。しかし父は、そのような弟息子のことも兄のことも大切でたまらないのです。自分が大事にされていると実感できる時、私たちは落ち着きを取り戻し、その人の良いところが引き出されるのではないでしょうか。兄息子は、お父さんからの愛情を信頼して受け取るならば、喜んで、すでに宴もたけなわになっているパーティの中に加わり、弟と共に「私たちのお父さんは、なんておおらかで、気前が良いのだろうね。嬉しすぎてこんなに急いで宴を始めてしまって。私たち、今はこうして、父の元にいさせてもらえてよかったよね。」と言うことができるのです。
「私たちの父よ!」という呼びかけは、私たちの狭く、自分勝手になりがちな思いを、他の人と生きる思いへと瞬間瞬間、引き戻してくれます。天の父は、自分によくしてくださるし、自分の親しい人にも、自分とは気まずく遠く離れている人にも、良くしてくださる方なのだ、という思いは、私たちに湧き起こる「怒りや嫉妬、寂しさ」を何度も何度も、乗り越えさせてくださり、深い安心感へと導いてくれるのではないでしょうか。
「天にまします、我らの父よ」私たちは、いつでも、何度でも、呼びかけましょう。なぜなら、私も皆さんも、深く愛されている神の子どもなのですから。