9月8日のメッセージ

おざく台教会2024年9月8日「たましいの糧⑮」

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<聖書> 第二コリント12章7〜10節

7 私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。

8  このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。

9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

<ファミリータイム>ルカの福音書18章

9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫をする者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 13ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 14 あなたがたに言うが、この人が義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

 

昔、祖母に連れられていった聖公会(英国国教会)の教会で、参加者が外国の言葉を唱えているのを聞きその響きが今も心に残っています。「キリエ・エレイソン」(主よ、憐れみ給え)。

イエスの時代、ユダヤ教では、立派で宗教的な人こそが天国に入り、罪深い人は神に見捨てられる、と理解されていました。けれど、イエス様は例え話を用いて、当時の人の常識をひっくり返すような話をするのです。イエスは、神が義とする(神様が受け入れる)のは、罪深いまま、何も立派なことが出来ないまま、ただ憐れみにすがった取税人だと言うのです。自分の立派さを誇った宗教家ではないのです。

私達は、「すべてを悟り、深く回心しました!」と言って洗礼を受けるのではないのです。私達は、「一週間、落ち度なく、汚れなく、立派に過ごしました!」と言って礼拝に集うのではないのです。私達は、「奉仕をし、献金をし、宗教的に歩みぬきました!」と言って天国の門をくぐるのではないのです。

私達は、「私を憐れんでください。」と洗礼の水に入り、「私を憐れんでください」と日曜礼拝に集い、「私を憐れんでください。」と天国の門をくぐり、憐れみ深い神の手に抱かれるのです。私達は、自分の業績を差し出し、神に受け入れられるのではないのです。憐れみの神がすでに私達を受け入れていて、ただ、その憐れみにすがるのです。

<弱さを誇る>

私達は強さや豊かさに憧れます。身体の強さや健康、暮らし向きの立派さ、経済的豊かさ、肉体の健康さ、生活の順調さ、社会的地位や評価、知識の豊富さ、人目を引く容姿、それらがあれば、精神的にも安定し、人前でも自信を持ち、過ごすことが出来ます。

逆に、自分に、家族に、困難や、問題や、人と比較して欠乏したり、劣る所があれば、引け目に感じたり、積極的に明らかにしようとはしません。見下されることすらあるからです。

 

このコリント教会の手紙には、誇り、強さ、弱さ、といった言葉が何度も出てきます。コリント教会の人々は、強さを誇り合っていました。ここで言う、「強さ」とは、先ほど例に挙げたような社会的な地位、経済力、健康、能力、知識量、生活水準とその順調さなどです。そういった恵まれた環境にあることは、単なる喜びだけでなく、古代においては、神からの特別な恩恵として、その人自身の信仰の素晴らしさへの神からのご褒美として、理解されていました。ですから、ただ「強さ」を誇っているのではなく、自分の信仰深さの証明として、宗教的な社会や、共同体の中での影響力につながったのです。コリント教会内での自慢大会、マウントの取り合いは、誰が神の前に立ちうるくらい立派か、という争いでもあったのです。

 

逆に、病や乏しさ、生活の問題や課題、苦労、そういったものは、正しくない者への報いとして理解されることさえありました。弱さを抱えた人は、罪深い人か、劣った人として、教会の中で、小さくなり、ないがしろにされていました。

 

共同訳には、旧約聖書続編がついていて、これは聖書には含まれませんが、当時の信仰共同体の見方や価値観を繁栄している貴重な資料です。その「シラ書」13章には、人間の現実を皮肉るように、こうあります。

21 金持ちがよろめくと、友人が支えてくれる。身分の卑しい人が倒れると、友人でさえ突き放す。 22  金持ちがしくじると、多くの人が助けてくれ、言語道断なことを口にしても、かばってくれる。身分の卑しい者がしくじると、人々は非難し、道理に合ったことを話しても、相手にしない。 23 金持ちが話すと、皆静かになり、その話したことを雲の上まで持ち上げる。貧乏な人が話すと、「こいつは何者だ」と言い、彼がつまずけば、これ幸いと引き倒す。

 

この富と貧しさは、強さや弱さと言い換えることも出来るでしょう。この姿が、ユダヤ社会の、コリント教会の、(そして恐らく私達の社会の)問題でした。

いわゆる「強さ」に感謝することは良いのです。ですが、その「強さ」は誰かに仕え、分け与え、祝福するために与えられているのであり、正しく用いないと、高慢になる、愛すべき人を軽んじる、など私達を神様から引き離すことにつながるのです。

ファミリータイムでお話したようにイエス様の姿勢は違いました。イエス様の考える神の国はそのような場所とは違います。痛む人を尊び、弱さを抱える人に寄り添い、罪人を受け入れるのが、私達の神様です。そして、この手紙で、パウロは当時の人が引け目に感じたり、見下していた、「弱さ」、困難や、欠乏や、苦労や、痛みや悲しみを、パウロ自身が誇るというのです。

 

ここで、パウロが用いた「誇る」、という言葉は、語源が、「首」です。顔を上げる、その支え、根拠、というニュアンスがあります。「○○を誇る」とは、それを根拠に神と出会う、という意味でも有るのです。

 

ユダヤの宗教家は、コリント教会の恵まれた状況にあった人たちは、自分たちの豊かさや立派さや幸福さこそが、神の前に顔を上げられる、神に顔向けできる、神に愛される根拠だと考えました。

けれども、パウロは弱さを誇るのです。弱さを持っていても、弱さに代表される、欠乏も、未熟さも、罪深さも、貢献のなさ、たとえ、そうだとしても、神の前に顔を上げられるのだ、と言うのです。

<キリストを誇る>

なぜなら私達には十字架があるからです。もうひとつ、パウロが誇ったものがあります。それは主、キリストです。

「誇る者は主を誇れ」(第一コリント1章31節)、「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」(ガラテヤ6:14)

私達にとって、神に出会う根拠となるものは、キリスト、その十字架しかないのです。それ以外を根拠に神の前に出ようとしてはならない、そう言うのです。

私達は、失敗や後悔があるかも知れません。「こんな自分では」「あの人のようでなくては」と思う時があるかも知れません。けれど違うのです。根拠は私達の側でなく、神の側に、十字架にあるのです。

神の憐れみのゆえに、どれだけ人に指さされようとも、自分自身に失望しようとも、弱さの、欠乏の、問題の、悲しみの中でも、罪の中にある時でさえも、私達は十字架のゆえに、神に対して顔を上げる事ができるのです。どうかいつでも神の前に出てください。

 

<弱さに働く神の力>

そして、「弱さ」、つまりは、欠乏、苦難、痛み、問題、それらの状態の中にあったとしても、決して恥じないでください。使徒パウロは、自分自身の体験から、そのようなときにこそ、神に頼ることが出来、神の力を体験することが出来た、そう励まします。

良い状況の人、恵まれた人が、神の素晴らしさを表現することもあります。けれど、苦難の中にある人、傷のある人、痛みを抱えた人、乏しさの中にある人、そのような状況の人をこそ、神が支えるのであり、そこで生まれる信仰の姿や言葉こそが、神の素晴らしさを表すのだと言うのです。
弱さのときこそ、それを恥じるのでなく、神との出会い、神をより体験する機会として、顔を上げ、周囲も祈り、支え、その人の姿から教えられようとする教会でありたいと願っています。

 

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