9月15日のメッセージ
おざく台教会2024年9月15日「たましいの糧⑯」
<聖書> ガラテヤ人への手紙3章11&26節
11 律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」のだからです。
26 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
<ファミリータイム>創世記15章
1 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。2 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」 3 さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。 4 すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」 5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
6 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
<信じるって、何?>
「信仰」「信じる」という言葉があります。みなさんはどんな意味で使っていますか?今日は聖書で最初に「信じる」という言葉が出てきた箇所です。
ユダヤ教・イスラム教・キリスト教においても「信仰の父」とされるアブラハムは、人生の晩年を迎えていました。自分に残された短い日々を数え、今までの歩み、選択について振り返っていく時期です。彼の心残りは、当時の文化では重視されていた跡継ぎがいないことでした。さらに、彼は故郷を離れ、異国の地に寄留していましたが、現地の有力者とでトラブルになり、恐れの中にいました。
神は15章1節でアブラハムに、「恐れるな」と語りかけますが、アブラハムは「私は何も祝福を受けていないではないですか。」と神に文句をいいます。
すると、神は、アブラハムを外へと連れ出し、満点の星空を見せ、その星を数えさせ、あなたの子孫はこのように多くなると、告げます。そして「彼は主を信じた。主はそれを神の義と認められた。」(15章6節)のです。
私達は礼拝の中で「アーメン」といいます。これはヘブライ語で、「信じる」と訳される言葉です。信じるとは、アーメンというのに似ています。この言葉は、「堅さ・確かさ」が語源であり、自分の側の思いの強さではなく、相手側の確かさを表現する言葉です。
信仰とは、私達側の強い思い込みでも、思考停止や理性の放棄でもありません。犠牲を差し出すことでも、宗教的な貢献でもなく(この時アブラハムはどんな善行も、宗教行為もしていません。ただただ、相手への信頼なのです。
また、今日の箇所で、アブラハムは、「神の約束を信じた」とは記されず、「主(神)を信じた」と記されています。信仰とは、ただの文言への同意ではありません。この人なら信頼して大丈夫、この人なら必ず良くしてくれる、そういった相手の人格への信頼なのです。
アブラハムの直面した現実は厳しく、先のことは具体的にはよく分からない。でも、神が良くしてくださるに違いない、そう信頼したのです。「アーメン」これは、「確かに、その通り」という同意の言葉でありますが、何より、「あなたはきっとよくしてくださる」という信頼の言葉なのです。
<信頼して生きる>
先週水曜日に、99歳で天に召された祖母の葬儀(教会では「葬送式」とも、「葬礼拝」とも呼ばれます。)がありました。聖公会の川崎聖パウロ教会の礼拝堂はステンドグラスや十字架の道行という彫刻で飾られ、オルガンに合わせ賛美し、式文を通して何度も眼の前の死という現実の先の希望を聞き、時に告白しながら進む葬礼拝は、目を天の希望へと向けさせてくれました。
私達には、希望があるのだ、信頼に足るお方がいてくださるのだ、先に召された祖母のことも、私達のことも、きっと良くしてくださるに違いない、そのような安心の中で、葬礼拝を過ごすことが出来ました。今日のガラテヤ人への手紙に有るように、信仰によって生きる、いえ、信頼に足る方によって生かされる、と言ったほうが良いでしょう。
親族の話が続き、申し訳ないのですが・・・
信仰という言葉を思い巡らす時に、私の曾祖母の千代さんのことを思い出します。富山県という昔ながらの因習の強い地域で生まれました。ある時、聖書を読んでいた友人に出会い、女学校の教師をしていて、知的関心も開かれていたのでしょう、キリスト教へと惹かれていったそうです。けれど、親族の中から耶蘇(やそ:キリスト教のこと)など出せないと反対に遭い、とうとう洗礼は受けることが出来なかったそうです。
それでも諦めきれず、暗い蔵の中でこっそりと聖書を読んだり、幼い祖母をおんぶして散歩へと連れ出し、懐に隠した聖書を読んでいたそうです。
残念ながら、娘(私の祖母にあたります)が5歳の時に、結核にかかり、亡くなります。耶蘇教などにかぶれるから、バチが当たったのだ、そういった言葉をたくさん耳にしたでしょう。もっと長く生きたかった、娘が大きくなるのを見たかった、神の祝福とは何だったのか?そんな疑問もあったでしょう。
それでも、娘の静子に、あなたは元気で大きくなってね、と伝え、「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。」(ローマ12:12)という聖書の言葉を伝えたそうです。
やがて祖母は、満州にわたり、(静子も現地で女学校の教師をし、《私の記憶違いでなければ教科書を墨で塗ったそうです》)、帰国後しばらくして、教会に足を運び、やがて母が受けることが出来なかった洗礼を受けたそうです。
母千代の望みは、祈りは、地上の生涯では見ることは叶わずとも、この時に実を結んだのです。
静子は、娘達を、そして、孫を教会に連れていきます。そして、いつも祈り、聖書物語を与え、時に声をかけました。
やがて孫の私が、別のきっかけから、教会に通い洗礼を受け、この春のイースターには、娘の淑子も洗礼を受けました。
きっと今頃、天で、千代さんと、静子さんは、手を取り合って喜んでいるでしょう。当時の千代さんの眼の前の状況は八方塞がりの絶望的だった。地上では、神の祝福とすぐに思えることは皆無であり、悲しみの涙をたくさん流したまま、命を終えました。
けれど、千代さんは、神様は必ず良くしてくださるに違いない、そう信頼したのです。
また、教会にはいけない、信仰的な行動や貢献もない、それでも神は自分を見捨てない、私の心を受け止めてくださる、そう信頼したのです。
私達は、アブラハムのように、恐れや、後悔の中にいるかもしれません。特別な貢献も、誇れるようなこともないかも知れません。
けれど、神が私達を尊び、受け止め、私達の魂を救い、天の家へと招き、受け止めてくださる。この地上でも、自分が見えない状況でも、必ず良くしてくださる、そう信頼して、希望を持って歩みたいのです。
失敗しそう、中途半端になりそう、気持ちが変わってしまいそう、大丈夫です。実はアブラハムですら、この後、いくつかの失敗や不信仰を経験します。けれど、すでに「義と認められた」アブラハムを、神は見捨てず、見放さないのです。
ある教会で、高齢の女性に献金の当番が回ってきました。身体は弱り、言葉の反応も鈍く、周囲は心配していました。祈りの際に、弱々しく立ち、こんなふうに始めます。「神様、私は最近いろいろなことを忘れてしまうようになりました。そのうちあなたことさえも忘れてしまうのではと、とても心配です。」周囲は、唖然とし、止めに入ろうかとさえ考えました。しかし、祈りはこう続いたのです。「けれど、たとえ私があなたを忘れてしまったとしても、あなたは私を決して忘れないでいてくださることをありがとうございます。」
初代教会が歌った賛美歌の歌詞が聖書に引用されているのを思い出します。「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」(テモテへの手紙第二2章13節)私達は、誤り、ブレ、迷う存在です。けれど、神はいつも、いつでも、変わらずに良いお方です。

