毎日の聖書8月26日〜
おざく台教会毎日の聖書 8月26日~
1日1章の聖書通読を用意しました。短い励ましの言葉と、それに沿った聖書から神様の言葉を添えました。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。
8月26日(月)ヘブル人への手紙 3章
14節「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」
終わりまで保ち続けるようにと言われている最初の確信とは何でしょう?それは、私は神の一方的な恵みにより救われ神の民とされた!という確信です。従うから救われるのでなく、救われたから神の民として生きるのです。あなたはもう神の大切な宝(申命7:6)です。
8月27日(火)ヘブル人への手紙 4章
13節「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」
アダムとエバが神に背いた原罪以来、人間は「いちじくの葉」(立場・業績・所有物など)を何重にも貼り重ね、罪に病んだ惨めな本当の姿を隠し、立派で敬虔な自分を装おうと奮闘してきました。
けれど、神の目はすべてを見通すのです。今日、裸の自分で神の前に出てみてください。「いちじくの葉」がなくても、どれだけ罪深く汚れていたとしても、神はあなたを愛しているのですから。
8月28日(水)ヘブル人への手紙 5章
8〜9節「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、」
キリストは十字架だけでなく、その生涯も苦しみに満ちていました。それゆえに、私達の苦しみに共感し、私達に寄り添うことが出来るのです。(問題のなさではなく、苦しみや痛みを身をもって知っていることこそが、神の完全さだということをどうか忘れないでください。)
今、生活に苦しみはありますか?悲しみはありますか?キリストの体験と私達の体験とは、は全く同じでは有りませんが、キリストは様々な苦しみと痛みとを身をもって味わっておられ、私達の悲しみを自分のことのように悲しみ、痛まれます。
あなたの心を、悲しみを、恐れを、寂しさを、不安を、キリストに注ぎだす祈りをしてみてください。
8月29日(木)ヘブル人への手紙 6章
6節「しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」
パウロがここで言う堕落とは、失敗や罪のことでなく、キリストの十字架では不十分とすることです。私達は十字架プラス何か(行い・奉仕・知識・感情・貢献・悟りetc)によって救われるのではないのです。ただキリストの十字架のみにより、すでに救われているのです
8月30日(金)ヘブル人への手紙 7章
25節「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
神の愛や自分の救いを疑うことはありませんか?捧げ物、努力、功績、感情などで神の好意や関心を得ようとしていませんか?赦しとは、救いとは、私達がこれからする何かではなく、キリストがすでに成し遂げてくださったことなのです。私たちはキリストのゆえに、すでに愛され救われています。安心して歩んでください。
8月24日(土)ヘブル人への手紙 8章
11〜12節「また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」
神様を裁判官や警察官のように、あなたの失敗や罪を探し出し罰する意地悪な存在として恐れていませんか?私たちの神様は、憐みと赦しの神様です。十字架による新しい契約のゆえに、罪や醜さを抱えたままであっても、大胆に神の前に出てください。
8月25日(日)ヘブルへの手紙第 9章
26〜28節「もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」
毎日同じ内容に聞こえるかも知れませんが、この手紙の著者(伝承ではパウロ)は、キリストの十字架、その一度で、すべての罪は赦され、救いは達成されたのだと、口を酸っぱくして説きます。
私達がすべきことは、神にこびたり、神から身を避けたり、神を怖がったりすることではなく、キリストの十字架を信じ、愛と赦しの神、父なる神の前に、大胆に進み出ることです。