8月25日のメッセージ

2024年8月25日 聖日礼拝 マルコ14/27~「十字架と復活」   斎藤義信・信徒説教者                                

 

27節イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『私は羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』

と書いてあるからです。28しかし、わたしはよみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」

 

私たちは毎日の生活の中で感情や気持ちが揺さぶられることがどの位あるでしょうか。例えば不幸な出来事に出会った、身内が自分が病を罹った。知人を亡くした。もっと身近で小さい事では、自分の持物を失くしたとか、知らず知らずのうちにそういうことが心にたまりストレスなっていきます。そういうことを私たち日々感じて生活してはいないでしょうか。毎日報道されるニュースなどでも痛ましい事件、事故などで私たちの心は平穏ではいられずストレスとなって蓄積されていきます。神様はなぜこのような試練を私たちにお与えになるのか問いかけたくなることもあります。

 

さて今日のテーマは「十字架と復活」と言うキリスト教での中心のテーマです。

私が教会に行くきっかけになったのは人生に対する疑問でした。小さいころ、人は勉強をして良い大学に入り、良い会社に入り、良い結婚をし、良い家庭を築くことだ、と聞かされていました。しかし、自分が思春期を迎える時に果たしてそれが自分の人生にとってどれほど意味や価値あることなのかと思うようになりました。

今年は終戦後79年、この時期に限定して戦時中の人間模様や戦場に散った人達の手記を基にした番組が放映されたりしていますが、私が子供のころは戦後まだ10年、15年頃はこの時期に限定せず、戦争の悲惨さや、戦争に付帯した人たちを題材に物語化した番組が良く、テレビで放映されたりしていました。その時は余り考えませんでしたが、思春期を迎える頃、かつての戦時中の若者たちに比べ、今の自分は何を考え、何に向かい進んでいるのか、これで良いんだろうか、戦争を肯定するつもりはありませんが、そういう素朴な人生に対する疑問が出てきていました。そういう私に、友人が教会を教えてくれて、通うようになり、ここに自分の求めている本来の人生の価値や意味を見出した気がいたしました。そこには科学的に実証することが難しい主イエスキリストの受胎告知による誕生、十字架、その死の三日後の復活という出来事を信じたから私は信仰を受け入れたのではありません。むしろイエス様の公生涯と言われる3年余りのユダヤ地方での歩みの中で、その地の人々との触れ合いを通して見られる神の愛や、教えなどからこのお方に信頼して歩みたい、寄り添っていただきたいということでした。この神の子と呼ばれるお方なら十字架も復活もあらゆることを超越されるも可能な方であるという視点から信仰に入られることができたのです。もちろん、信仰に導かれる方の中には私のような単純な方ばかりではありませんし、非科学的論理が実証されないと信じないという方もいらっしゃると思います。この十字架と復活信仰について弟子たちははどうであったのか?

 

【弟子たちの信仰】

当時、イエス様に従っていた弟子たちは主イエスをどのように捉え、従っていたのでしょうか。

マルコ伝の14章以下を見ていきますと、イエス様が十字架につけられる過越祭の数日前から始まっています。ベタニヤのシモンの家でマリヤが埋葬の準備とイエス様の頭に香油を注ぎました。それを見ていた弟子の一人が高価な香油を無駄に使うな!と諫めたところイエス様の優しいフォローが彼女になされました。その後、最後の晩餐のストーリーがあり、イエス様の十字架につけられる前の最後の父なる神への祈りがゲッセマネの園でなされました。主の血の汗を流すほどの祈りの中で少し離れたところの弟子たちはというと不甲斐なく居眠りをしていた。彼らも伝道の旅で疲れていたとも思います。主から諫められました。それが三度ほどあり、そしてイスカリオテ・ユダの裏切りによりイエス様は、祭司長、律法学者たちの手によって捕らえられ、裁判にかけられることになり法廷に引かれて行かれました。その捕らえられたイエス様を尻目に見ながら法廷まで着いて行った弟子のひとりのペテロの失態。彼はイエス様から「あなたもわたしを裏切る」と宣告されました。しかし自らそれを否定し、「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません」マルコ14/29と宣言しながら、舌の根も乾かない内に集まっていたユダヤ人の周りの人たちから「あなたもあの人と一緒にいましたね」と言われると「何を言っているのかわからない」マルコ14/67.68と言って否定しました。その否定が三度もありました。

そして15章からはイエス様の裁判の行方は、ほとんどのユダヤ人は十字架だ、十字架につけろ!と不当な裁判の結果、十字架につけられ亡くなられました。今日の聖書の箇所のイエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。」『わたしは羊飼いを打つ。すると羊は散らされる。』と書いてあるからです。」イエス様の十字架の死によって弟子たちはちりぢりになってしまいました。そしてユダヤ人たちを恐れて戸を閉めて震えていたのでした。彼らの信仰はどうなってしまったのか?恐れと不安の中に取り残されてしまいました。

 

【女弟子たちの信仰」】

3日目の安息日の朝、マグダラのマリヤたちはイエス様の身体に香油を塗るために埋葬された墓に出かけていきました。マルコ伝16章になります。15/46「…そして、墓の入り口には石が転がしてあった」彼女たちも見て知っていました。

そして16/3「…だれが墓の入り口の石を転がしてくれるでしょうか…」こういう中で無理だ…!と思われる中でも彼女たちはイエス様を思う一心で墓に出かけて行く、向こう見ずというか、考えてのことであったのか?わかりませんが。4節「ところが、目を上げてみると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。」そして墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので彼女たちは非常に驚いた。驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているでしょう。あの方はよみがえられました。…

私たちも時にこういう事はないでしょうか?難しい課題や問題に出会ったときにどうしたらよいのか途方に暮れてしまいます。一歩踏み出すことが出来ずにあきらめてしまうようなことを経験したり、そういうことに出会うことがあると思います。そういうことが積み重ねられるとストレスになってきます。この女たちも初めはそうであったと思います。疑心暗鬼の中、あの重い大きな石で封印された墓が目の前に置かれていてどうするんだ!その真意は図れませんが…、でもあの主がどうにかしてくださるという祈りをもって進んでいった。そこに道が開きました。そして7節「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。…」 すっきりしたストレスの解消法はなかなか見つかりませんが、祈りながら待つということで道が開かれることがあります。彼女たちは3日間恐れながらも祈って待っていたと思います。

 

【主イエスの愛の癒し】

イエス様は初めから十字架と復活までの道のりの中で弟子たちの裏切りはご存じでありました。イスカリオテ・ユダの裏切り、ペテロの主への否認、そして散らされた後の弟子たちの恐れて閉じ籠っていた不信仰。いづれにしても今まで主に従っていた弟子たちは一体何だったのか、そう思われても仕方ありません。しかし、それでもイエス様は彼らのことを本気で愛して止まないお方でありました。16/7『イエスは、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。前にも言われたとおり、そこでお会いできます。』と。ガリラヤに戻るということは弟子たちが、主イエス様と彼らが最初に出会い、導かれ寝食を共にしたところでした。彼らの故郷でもありました。故郷に戻るということは住み慣れた町や懐かしい友との出会い、心が落ち着くところでもあります。エルサレムの町まで伝道の旅で導かれてきたものの、自分たちの先生は十字架で死んでしまった。悲しい状況を迎えながらも、しかし主は復活されて自分たちの前に御姿をもう一度現わしてくださった。都での多くの経験、体験をした弟子たちに主が仰ってくださいました、「あなたがたより先にガリラヤに行きます。そこでお会いできます。」ヨハネ伝にはガリラヤの戻った元漁師であるペテロは、兄弟と一緒にガリラヤ湖の漁に出ました。そこに主は現れてくださいました。そしてペテロには苦い思い出をかき消して下さるようにヨハネ3/17「イエスは三度目もペテロに『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか』…あなたはすべてご存じです。あなたは私があなたを愛していることを知っておられます。イエスは彼に言われた。『わたしの羊を飼いなさい』」ペテロはこのガリラヤを使徒として再び歩みだすスタートになりました。他の弟子たちにとってもこの故郷であるガリラヤから伝道者としての歩みを始める一歩になったと思います。

私たちも信仰を持ちながらも様々の理由で立止ってしまうことがあります。しかし、祈って、初心に戻り、前に進ませていただければ道は自ずと開かれていくと思います。今週も主に期待しながら歩みましょう。

 

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