8月11日のメッセージ
おざく台教会2024年8月11日「たましいの糧⑫」
<聖書>第2コリント教会への手紙第 1章3〜6節
3 私たちが主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。 4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。 5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。 6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。
<神は、慰めの神>
先日NHKスペシャルで、爆心地近くの広島赤十字病院での医療従事者の奮闘と葛藤を描いた「いのちの塔」という番組が放送されました。爆発による甚大な被害に加えて、人類が体験したことのない放射線の影響という中で、懸命に被災者に寄り添う医療従事者達。いつしか人々は病院をいのちの塔と呼ぶようになります。一方で、米国は、被爆者を実験体のようにみなし人体被害への調査だけを行い、日本は米国に尻尾をふり、原爆投下などなかったかのようにふるまう。人にとって本当に大切なことは何かと、考えさせられる作品でした。
(核の被害に備え、ウクライナから医師団が広島赤十字病院に研修に来る場面がありましたが、被曝から28000日となっていました。人がごまかそうが、目を背けようが、忘れようが、広島赤十字医病院では今も、治療が続いています。原爆被害はまだ終わっていないのです。)
今日の箇所では、キリスト教会で大切にされている有名な箇所があります。
第2コリント3:18「 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
キリストの姿へと変えられていく、それが大切な目的だと言うのです。(神の愛を喜んだり、天国に入れられたりも、素晴らしい目的です。)では、キリストの姿とは何でしょうか?米国はキリスト教国です。それではキリストのように、キリストの姿で歩んでいたでしょうか?
インドには、ガンジーという指導者がいました。彼は、聖書を読み、キリストの姿に感動し、彼自信が大きな影響を受けました。しかし、自分たちを支配する、キリスト教徒であるはずのイギリスの人たちには大きく失望したと語っています。礼拝はしていたでしょう。知識もあったでしょう。生活も聖書に合わせようとしていたかも知れません。けれど、そこにキリストの姿は見えなかったのです。
キリストの似姿、「主と同じかたち」、とは何でしょう?神は、「慈愛の父、慰めの神」、だとされています。キリストは宗教的な社会にやってきて、痛む人、悲しむ人に、寄り添い、身を持って、言葉を持って、寄り添い、慰めました。キリストの似姿とは、教会が目指すものとは、まさにこの姿です。
広島の赤十字病院の方々は、キリスト教徒ではないかも知れません。仏教の方、神道の方、無宗教の方もいたでしょう。けれども、痛む人、苦しむ人、頼りのない人、に寄り添い続けた。自らも被爆(被曝)し、体や心の調子を崩し、自死にまで追い込まれた医師もいた。けれど、文字通り心身を粉にして、眼の前の苦しみ人の慰めとなる姿にこそ、キリストの似姿を見るのです。それは、神の目には、宗教的であることや繁栄や成功よりも、価値の有ることなのです。
<苦難は完全さへと、キリストの似姿へとつながる>
わたし達の毎日には、健康や、豊かさや、安定や、楽しみの多さなど、幸せにつながることは多いかと思います。逆に、病や、欠乏や、困難や、苦労、それらは、幸せからは程遠く、生きる意味や人生の価値を見失わせるものに感じるかもしれません。けれどもこの手紙を記した使徒パウロは、自分が体験する困難や苦しさに対して、別の見方を持っていたのです。
4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。 5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。 6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。
確かに苦難が溢れている。けれど、神の慰めもまたある。苦難にあったからこそ、身をもって痛みがわかる、悲しみが分かる。自分自身も誰かの慰めとなれると言うのです。これは、パウロの負け惜しみでも、綺麗事でもないのです。パウロはキリストの姿を念頭に語っていました。
おそれらくキリストほど、過労や、乏しさや、誹謗中傷や、裏切りや、陰謀に翻弄された人は少ないでしょう。鞭打ちや、十字架などの肉体的な苦難も味わいました。けれど、それはわたし達の慰めのためでもあったというのです。
●ヘブル4:18「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」
●ヘブル5:8〜9「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、 完全な者とされ、」
痛みや苦しみを通して、「完全な者とされ」た、とあるのです。神であること、すべてを知り、すべてが出来ること、心も生活も清らかであること、それだけを指して、完全とは言っていないのです。優れている完全さではなく、問題や困難がない完全さではなく、痛みを知り、苦しみを知っている。そのことで、身をもってわたし達の痛みや悲しみに、寄り添うことが出来る、そのことこそが、「完全さ」だというのです。親しいという字は、「死や悲しみをともに見る」という成り立ちがあります。神は、遠くからわたし達の悲しみを眺めている神でなく、自ら痛み苦しみ、同じ痛みを持つものとして、わたし達に寄り添い慰める神なのです。
その意味で、わたし達が体験する苦難や悲しみは、完全さへとつながる、キリストに似た姿、慰めの神の心を持ったものへと変えられるきっかけともなるのです。
美しい宝石である真珠は、貝に異物が混入することではじめて、造られます。本来、貝殻の中に入ってきた異物は、貝を傷つけ、命を奪います。そこで貝は、分泌物で異物を覆います。そして、異物をきっかけに、美しい虹色の光を放つ真珠となるのです。
わたし達も似ていると思いました。苦難はわたし達を倒したり、心を歪ませたり、人を苦しめる人にわたし達を変えてしまうこともある。その場合のほうが多いでしょう。キリストやパウロだって、苦しみましたから、その危険もあった。けれどパウロ自身が手紙の中で「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。・・・自分自身が神から受ける慰めによって・・・慰めもまたキリストによってあふれているからです。」と記しているように、神の慰めという助けが、それが分泌物のように苦しみを覆い、苦しみをきっかけとして、慰めの心、キリストの似姿という、真珠のような宝をわたし達にもたらすこともまた、有りうるのです。
8月9日の長崎の記念式典を見ていて、長崎を最後の被爆地に、という決意がありました。誰かがもう苦しまないように、力を尽くし、戦争を続ける国やそれに意見できない政府や諸外国の前で、堂々とNOを言う。自らが痛みを知り、苦しむ人の姿を無視せず寄り添うその姿勢に、キリストの姿を見た気がします。
NHK番組「いのちの塔」では、赤十字病院の院長が、晩年広島の基督教会に熱心に通われていたと紹介されていました。わたし達は、苦難のときにこそキリストの慰めを、そして痛む人に寄り添うキリストの似姿へと変えられていくことを、求めていきたいと願います。
