8月4日のメッセージ

おざく台教会2024年8月4日「たましいの糧⑪」

<聖書>コリント教会への手紙第一15章1〜4節

1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。・・・2 この福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、・・20 今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

<福音は、十字架と復活>

8月は、終戦の時期であり、お盆もあり、死について、考えさせられる時期でもあります。

死への理解は、生への理解にも大きく影響を与えるのです。この世界には2通りの考え方があります。死ですべてが終わるという考えと、その先があるという考えです。

 

聖書を開く時、わたし達は様々なことを知り、学ぶことが出来ますが、使徒パウロは、良い知らせという意味で「福音」(ギリシャ語でユーアンゲリオン、エヴァンゲリオン、英語ではゴスペル)というものを、コリントの人々に告げました。これが救いだと、これが「最も大切なこと」だと、これがわたし達の生き方に深く影響を与えるというものとして、記したのです。
それが、今日の箇所、福音とは、キリストの十字架と、キリストの復活です。

キリスト教は、十字架と復活の宗教です。十字架と復活とは2つで一つです。十字架で身代わりに死ぬ犠牲の愛の宗教ではとどまらないのです。その後に復活があるのです。また、キリストはただ事故や寿命で死に、復活するのでもないのです。わたし達の罪を十字架で身代わりに背負い死なれたのです。

 

<復活という福音>

わたし達の生命活動はいつか必ず終わります。聖書は、わたし達を「朽ちるもの」(第一コリント15章53章)とします。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(創世記3章19節)わたし達の身体を構成していた原子は、バラバラになり、地面や、大気や、他の生物の一部となります。人は必ず死を体験します。

 

死はわたし達を恐れさせ、不安にさせます。また、古代のような、より死が身近であったり、苦難が多かった時代、(またアメリカでの黒人霊歌などに反映されるように最近でも)、人々は問いました。これだけ苦しむなら何のために生まれてきたのか、何の希望があるのか、神を信じ誠実に生きる意味などあるのか。

また、コリントの一部の人々のように、限りある人生なのだから自分のことだけを考え好き勝手に生きればよいではないか・・・死への理解は、生き方にも大きな影響を与えます。

 

そんな恐れや失望。諦めの中にある人に対して、聖書が示す良い知らせは、わたし達は死で終わらないということです。その先があるのだと言うのです。その証拠がキリストの復活です。

「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(20節)

初穂とは、収穫の最初の1房です。初穂が、後の収穫を保証するように、キリストが蘇ったことは、わたし達もよみがえる、ことを保証すると言うのです。キリストを、キリストの復活を信じるということは、わたしも死では終わらないということを信じることでもあるのです。パウロは続けます。

「51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。55 『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』」(51〜55節)

 

パウロは、その希望があるから、死を恐れ諦めるのでなく、失望して自堕落に生きるのでなく、苦労や悲しみはあっても、その先の希望があるのだから、神を信じて誠実に歩みなさいと励ますのです。

私の場合は、(小さい頃に病を経験したこともあるのでしょうか)死を恐れていました。恐れすぎて、余裕を失ったり、考えや心がとても狭くなったりもしました。けれど、この福音を聞き、変わってきた自分も発見しました。死の先に希望があるので、不安の中にも安心もまたあります。その保証があるからこそ、良い意味で捨て身にもなれたり、人のために努力や我慢ができたり、もするように変えられてきたと感じます。

それぞれに受け止め方は違うと思いますが、死ですべてが終わるという考えと、その先があるという考えでは、生き方にまで、大きな違いをもたらすように思えます。

キリストが復活したように、わたし達も死では終わらない、その良い知らせに、その希望に生かされるわたし達であるように願っています。

<十字架という福音>

もうひとつ、キリストはただ、死の先があることを示したのではないのです。十字架の死の先を示しました。

ある人は、神を信じている、死のその先があることを信じている。でも、不安だと、恐ろしいというのです。

自分は、神に受け入れられるほど、十分なことをしていないのではないか、自分の過ちや、醜さや、愚かさを、神は怒り拒むのではないか・・・死の先が、神が自分たちに何をするかが不安だと言うのです。(それは恐れで人を支配するカルト宗教の思考です)

 

だからこそ、十字架の死が重要なのです。十字架のポイントは、形でなく素材です。旧約聖書で「木にかけられた者は、神に呪われたもの」(共同訳:申命記21:22〜23)とあるように十字架とは、恥や苦しみの象徴であるだけでなく、呪いの象徴でもあります。呪いとは、神に拒まれる、見捨てられる、ことを意味します。十字架とは、罪の、神の拒絶の象徴です。

 

確かに、わたし達は、神に拒まれるようなことをたくさんしてきたでしょうし、聖なる神の前に立ち得るような存在ではないかも知れません。

けれど、聖なる神は、同時に愛と慈しみの神でもあります。

パウロは福音として告げるのです。「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、」(3節)

キリストは、ただの事故死や病死ではない、神だから死ななかったのではない。神から離れていた人のために、わたし達の罪や醜さを全て引き受けて、その人達が受けるはずの呪いもその身に背負って、十字架にかかり死なれた。

十字架とは、わたし達のため、わたしのため、あなたのため、であったのです。神から見棄てられる人、神から引き離される人などいないと、一人もいないのだと、示しているのです。

 

どうか神を誤解しないでください。死の先を恐れることなど、ないのです。神はわたし達を苦しめ突き放そうとする神ではなく、わたし達のために自らが苦しんでも、引き寄せようとする神、わたし達を救うために、自分の命を捨てる神です。

 

どれだけこの地上の歩みが困難に満ちていても(もちろん神は日々ともにいてくださるのですが、この文脈での強調点は別にあるため、少し触れるだけにします)、どれだけ死が恐ろしくても、死のその先がある、恵みと憐れみに、愛と慈しみに満ちた神が、十字架でしたように手を広げて迎えてくださる。この福音に、支えられて毎日を歩めますように。

 

キリストは、十字架でわたし達のために死に、わたし達の初穂としてよみがえられた神です。

 

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