6月16日のメッセージ
おざく台教会2024年6月16日「たましいの糧⑥」
<聖書>
コリント教会への手紙第一3章16節 「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」
創世記2章7節『神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。』
<ファミリータイム:父の日:男性のための祈り>
先日の母の日に続き、今日は父の日を覚えた礼拝でもあります。おざく台教会では父親に限らず、全ての男性のために祈る日としています。
「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」第一テモテ2:8
男性には神様から、力、指導力、立場など、素晴らしい賜物と役割が与えられています。同時に、自己中心さや高慢さといった傾向もあり、怒りや争いに陥りやすい弱さを抱えています。自身の内側にある弱さに負けず、与えられたものを発揮する鍵として、聖書は祈りを勧めるのです。
祈りとは神の前にへりくだる行為、自分の思い以上に、大切なものがあるのだと認める行為です。聖書の人物たちも、祈り歩んできました。男性は祈る時にこそ、男性特有の弱さは抑えられ、神に与えられた、力を、健全に、豊かに発揮し、周囲に善いものをもたらすことが出来るのです。
神様は期待を込めて、私達を男性としてこの世界に生まれさせてくださいました。皆様の歩みの守りと祝福とを心よりお祈りしています。
<いのちの息を吹き込まれ>
今、中学では、生物について学んでいます。(次のテストでは、生物とロボットとの違いについて、記しなさい、という問題が出ます。)この学びを通して、いのちの不思議さ、その大切さを知ってもらえればと願っています。
この世界はすべて100種類ほどの小さな粒から出来ています。それらを元素と言って、スイへーリーベボクノフネ・・・(水素、ヘリウム、リチウム、・・・)と覚えた方もいたでしょう。その粒(原子)はとても小さく、1グラムの1円玉に、アルミニウムの原子が220垓個(万、億、兆、京、垓)も含まれています。
そして、この世界の全ては、元素の組み合わせで表すことができます。私達の身体は、水素H、酸素O、炭素C、窒素Nの4つで、身体全体中の95%以上を占めます.。私達の材料は、地面の土を掘れば簡単に得ることができますし、子どものお小遣いでも購入できます。
けれど、私達は、土塊でも、安物でもありません。それらが複雑に美しく組み合わさり、驚くような仕組みで動き、感じ、考え、行動する、心を持っています。
また、驚くべきことに、私達の肉、骨、臓器、脳、神経まで、私達を構成する原子は、1年間もすればほとんどが入れ替わってしまい、他の生物や、大気や、地面、海を構成する原子となります。私達は、1年もすれば、物質的には全くの別物なのです。けれど、私達は1年前と人格や記憶が別物になったりはしません。
この不思議さを思うたびに、いつも今日の聖書の箇所を思い出します。土とほとんど同じ構成物質の私達が、驚くべき仕組みで生き(しかも自分で意識もせず)、心や魂とも表現される意識・人格を持っている、そこに神の業を感じるのです。
また、「鼻にいのちの息を吹き込」んだとあります。(救命救助の人工呼吸のようなイメージでしょうか)。息(ヘブル語でルーアハ)とは、霊とも翻訳される言葉で、心や魂とも同じように使われます。そのくらいの近さ、親密さで、それほどに思い願われて、神の心が込められて、私達は生まれ、日々の命を与えられているのだ、と聖書は言うのです。それほど大切な、尊い一人ひとりだと言うのです。
私達は、おどろくような仕組みを持った身体と、神から与えられた心・人格があります。それを新約聖書には、「あなたがたは神の作品であって」(エペソ2:10)という言葉があります。別の翻訳では「最高傑作」となっていました。私達は神の目に宝のような存在なのです。ですから、だれの心も、身体も、言葉や力によって傷つけてはならないのです。
私達は、隣の人は、一人ひとり違いますが、その身体と心は、素晴らしいものです。神に心から願われて、今のあなたがあるのです。どうか、自分を大切にしてください。そして、願わくは隣の人をも大切にしてください。
<神が共にいてくださる者としてふわさしく生きる>
使徒パウロは、問題を抱えていたコリント教会へ向けてこの手紙をきました。お金がなかったとか、迫害されていたとかではなく、内側の問題でした。みなが高慢になり、自分だけを正しい年、互いに否定し合っていました。また、教会の貧しい人や地位の低い人をを見下し片隅に追いやったりしていました。
そんなコリント教会に向けて、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(第一コリント3章16節)と諭します。
この場合のあなたがたは、共同体全体を指します。コリント教会のように高慢で愚かであっても、おざく台のように小さくても、神の御霊が宿っている、神が共にいてくださっている。ですから、互いを尊び合い、神が共にいてくださる場所、神の神殿に、ふさわしく歩んでください、というのです。
<この身はやがて土に帰るとしても>
また、最後にもう一つだけ、聖書は、人の尊さを強調しつつも、その儚さも語ります。
「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(創世記3章19節)
「みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。」(伝道者の書・コヘレト書3章20節)
けれどそれで終わりではないのです。
「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」
たとえ、1年で身体の原子が入れ替わろうが、やがてこの身が焼かれ灰になろうとも、神にいのちの息を、霊を与えられた私達は滅びないのです。ですから、どうか、死への恐れに押しつぶされないでください。憐れみ深い神が私達を迎えてくださいます。