2月18日のメッセージ
「夕べの祈り」 斎藤義信 2024年2月18日
詩編4編1~5節
1.私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。 追いつめられたとき あなたは、私を解き放ってくださいました。私をあわれみ 私の祈りを聞いてください。 2.人の子たちよ いつまで私の栄光を辱め 空しいものを愛し 偽りを慕い求めるのか。 3.知れ。主はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。 私が呼びとき 主は聞いてくださる。 4.震えわななけ。罪を犯すな。心の中で語り 床の上で静まれ。 5.義のいけにえを献げ 主に拠り頼め。
私たちが教会にきて信仰に導かれて行くときに以前の自分を振り返ってみて違うところ、変わったということはないでしょうか。信仰を持つ以前は「こう考えた…」、でも今はこう考える。ちょっと難しい言い方をすれば信仰を持つ前は「自分が、自分は…」と主観的であった、ところが見方を変えて客観的にみられるようになった。あくまでも私の場合ですが。例えばある第三者との問題ついて信仰前は常に「自分はこう思う、自分はこう考え…結果はこうである。」と言って自己中心的な常に主観的になってしまい、相手の立場を考えずにいた思いがあります。また良し悪しに関係なく、消極的であったところが、客観的にみてよい意味で積極的になってきたとか、…クリスチャンの皆さんも通じるところが少なからずあるのではないでしょうか。また、まだ教会に来て間もない方もいらっしゃると思いますが、皆さんはいかがでしょうか。
読んでいただきましたところは「夕べの祈り」とも言われています。詩編3編で「朝の祈り」に対する祈りです。3編はダビデ王が息子アブサロムに武力で王位を奪い取ろうとされる中でのダビデ王の祈りでした。4編の夕べの祈りは8節「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ眠りにつきます。主よ あなただけが 安らかに私を住まわせてくださいます。」直面している危機的な状況の中から生まれる表現ではなく、切羽詰まった状況の中でもこういう祈りの言葉が生まれてくる、恐れや困難な中でこそ、逆にこのような平安が与えられるということはどういうことなのでしょうか?この辺りを学んでいきたいと思います。
3編でダビデ王は息子アブサロムに王位を狙われていたということでした。彼はイスラエルの王になる以前には前のイスラエルのサウル王から反感をかい、追われることがありました。そして今は息子アブサロムから逃れようとしている。彼のイスラエル王としての全盛期にはすべてが順風満帆という事ばかりでなく、時に自分の部下であったウリヤの妻との姦淫、そして殺人まで犯しました。しかしそういう中でも彼は悔い改めながらも主を呼び求めていました。
私たちも信仰を持ってからはいつでも安泰、平和というわけではありませんし、日々、多くの問題や困難に出会うときにどのように神様が介入してくださるか、毎日が戦いの連続のようであり、そういう中で主に呼ばわることがあります。
4/1節「私が呼ぶとき、答えてください。…私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。3節「私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。6節「主よ。どうか あなたの御顔の光を 私たちの上に照らしてください」ダビデが主に願うように私たちも必要に応じて主に対する呼びかけ、願うことがあります。
私たちは一日の生活が終わるときに学校や職場や家庭で今日一日本当に満足のいくような一日だったか、それとも何か失敗をし、恥をかき、あるいは罪を犯してしまったことが悔いとなる一日であったか、みなそれぞれ違います。そういう時に夜、祈りながら、あるいは翌朝早く起きて祈るときに「私が呼ぶとき、答えてください」そういう祈りになります。形や内容は違えど神様に願い求めるのではないかと思います。ダビデは3/1節「主よ、なんと私の敵が増えてきたことでしょう」と言い、4/2節「人の子たちよ。いつまで私の栄光を辱め 空しいものを愛し 偽りを慕い求めるのか。」反逆者アブサロムに与するイスラエルの民、ダビデを陥れようとする人々だと思います。
4/1節「私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。追い詰められたとき あなたは私を解き放ってくださいました。私をあわれみ 私の祈りを聞いてください。」2017版聖書では「解き放って」それ以前の聖書では「解き放って」を「ゆとり」という言い方が使われています。これは「私を広いところに置かれる」という意味があります。困難や苦しみになかでも神様は私たちを自由にしてくださる、御手の中で守ってくださる神様が私たちを救いに導いてくださった後も変わらない祝福を表しています。
今、私の住んでいるところは3LDKのマンションです。もう15年以上前に住み始めてところですが、そこに以前は家族6人で住んでいました。子供たちは大学生高校生でした。3LDKですが、狭かった。もう子供たちは出ていますが、息子の一人がある時言いました。部屋に居るときのことを「息苦しくて仕方なかった…」と。物理的なことかもしれませんが、狭いところでは精神的にも窮屈になり考え方も狭くなる、広いところに置かれるという事は、心にも余裕が出てきたりしてあるいは問題の渦中にあっても神様を仰ぎ見る目が与えられる、そういうゆとりを主は与え備えてくださいます。
4/3節「知れ。主はご自分の聖徒を特別に扱うのだ 私が呼ぶとき 主は聞いてくださる。」とありますが、この「聖徒」とは神様の恵みに信頼を置いている者という意味があります。ですからクリスチャンその者を指しております。主は信頼する者の声を聴いてくださり、神様はその人の願うように特別に扱ってくださいます。4節「震えわななけ。罪を犯すな。心の中で語り、床の上で静まれ」神への畏敬の念(主の前に震えおののく)と信頼もって接するためにこの世との違いを感じながら歩む本来の信仰の姿勢を語ってくださっているのではないでしょうか。この「罪を犯すな」は新約聖書のエペソ書と引用されることがあります。エペソ4/26「怒っても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままではいけません」とあります。怒りは罪を誘発することがしばしばあります。避けて通りないこともあるでしょう。
以前お話したことがあるかもしれませんが、私の会社の取引業者の中に肌の合わない人がおりましてとうとうぶつかってしまいました…。良い証にはなりませんが、
その時は、その後であったか、何時か忘れましたが、「怒っても、罪を犯すな」の御言葉を思い浮かべました。私たちは知らず知らずのうちに言葉や行動の端々で罪を犯していることがあります。気づかないことは、時に大きな罪を犯す場合があります。主を畏れつつ「心の中で語り 床の上で静まれ」と語っています。 ダビデの長い人生の中で国を統率する王の立場から罪を罪として認め、悔い改めの連続の中に生かされていたことを思います。初めにも言いましたが、前イスラエルのサウル王に追われ、洞窟の中、彼はサウル王に剣を下せるチャンスがありました。しかし、彼は「主に油注がれた方に手を下してはならない」(Ⅰサムエル24/6)という罪に対することに思いでとどまったのに、やがてウリヤの妻バテシェバに姦淫の罪を犯し、ウリヤを殺害してしまった、という大きな罪を犯しました。彼の罪に対する悔い改めは限りなく大きかったと思います。私たちも時にそういう事があるのではないでしょうか。
私たちは一日の歩みの中で何度か、忘れていた時に神の声、天上からの声にあるいは、はたと気づかされて立ち止まることが、皆さんは如何でしょうか?そして立ち止まり、客観的に今どうすべきか、考えます。考え事をしている最中に、勉強中、あるいは料理を作っているときに仕事で決断を迫られる時に…また夕べの祈りのベッドの上で取り扱いを受けることがあるように思います。
5節「義のいけにえをささげ 主に拠り頼め」義のいけにえとは信仰の父アブラハムが我が子イサクを主の前におささげしたこと(創世記22章)、しかし神様はアブラハムの信仰を覚えて下さり、すぐにお止めくださいましたが、主はそのことを良しとされたように私たちも私たちの最も大切なものを犠牲にして言ってみれば、その時の私たちの心の奥底にあるもの、人には言えない事柄やそういうものを注ぎ出して主の前に祈るということではないでしょうか。そういう祈りを主は顧みてくださいます。それは取りも直さずイエス様が私たち、世の人々すべての人類のために大きな犠牲をまず払ってくださったことその主の犠牲の上に私たちは立たせていただいていますのですべてことを主が代償としてくださるのです。この主に困難と絶望の中にあっても「ゆとり」を与えてくださる主を信じて平安な祈りを日々続けていかれるように今週も願い求めて行きましょう