8月20日のメッセージ

おざく台教会2023年8月20日「キリストと出会う⑮」

 

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<聖書:ヨハネの福音書6章>

14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。 15 そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやり連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。 16 夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。 17 そして、船に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。 18 湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。 19 こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。 20 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」 21 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた

<絶望の場所で> 

 今日の箇所は5千人の給食の次に続く奇跡で、5千人の給食の出来事とセットになっています。ただ、他の福音書(マタイ14章、マルコ6章)のように、イエスが船に入ると風が止むエピソードも、ペテロが呼ばれて水の上を歩き溺れそうになるエピソードも出てきません。

 ヨハネは一番最後に書かれた福音書ですので、大体のことはもう知っていますよね、という意味でしょう。けれどルカ(9章)のようにこの出来事自体を省略せず、荒れた湖の中の弟子たちに、イエスが会いに来ることが記されています。

 

 そして、湖の上を歩いて近づき、「恐れるな」というのです。湖には大量の水があります。水は、命を保つものではありますが、海や湖などの大量の水は、混沌の象徴であり、恐れの対象でした

 創世記1章はこう始まります。「1 初めに、神が天と地を創造した。2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。3 神は仰せられた。「光あれ。」すると光があった。」(創世記1章1〜3節)
 創世記の記述もあり、大量の水とは、創造の以前の、神の支配と秩序が及ばない、混沌の状態とも理解されていました。そして、実際に海や湖が風で荒れると手がつけられない状態になり、人は命を落とすしかなかったのです。

 

 この荒れた湖とはまさに、ユダヤ人にとって神の支配と秩序が及ばないと考えられていた状況なのです。神の手が差し伸ばされない、神でさえも救いえない状況なのです。(私達も、この状況は神でも救えない、と考えることがあるでしょうか?)

 

 けれども、イエスは神ですら手が出せないと考えられていた荒れた湖の中を歩かれた、神でも救えないと思われた状況の中を進みゆかれた。そして、死を覚悟した彼らに出会ってくださったのです。

 

 弟子たちは最初、人影を見て恐れます。日本でいうと、お迎えがきたか、と思ったのでしょう。当時、悪霊は水の上に出ると考えられていた。混沌と苦難の中で出会うのは、せいぜい死神か悪霊かと思われていた。

 そこで、イエスは言われたのです。「わたしだ。恐れることはない。」もう神も手を出せない、出会うのは敵か、悪魔か、死神でしかない、私達にはそう思える状況の中でも、主イエスは来られるのです。

 

 私達は、どうしようもない状況に陥ることがあります。でも信じてください、イエスは嵐の中でも出会い、恐れに満ちた船に乗り込んでくださる方です。イエスが来られない場所はないのです。

 

 

「7 私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。8 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおら

れます。9 私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、10 そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。」(詩篇139:7〜10)

 

<追い求める神・天の猟犬>

 そして、生きているうえで直面する嵐、困難な状況にも来られるだけでなく、私達が自分自身の罪の嵐の中で、まるで自業自得のように苦しんでいたとしても、その罪や愚かさの泥沼の中にさえ、十字架にまで来てくださる方です。

 

6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。

 

 混乱の中でも、罪の中でも、キリストが来られない場所はないのです。神が追い求めない人はいないのです。そして、十字架で死罪となった強盗に会いに来てくださる方です。

 

 ある牧師は聖書の神を『追い求める神』と表現しました。諸宗教のように「私達が追い求める神」ではなく、『私たちを追い求める神』です。

 もし、キリストが『私達が追い求める神なら』、私達は神には嵐の中では出会えません。問題があったり、失敗があったり、罪があったりすれば、それは神に出会う資格がないのです。

 けれども、キリストは『私たちを追い求める神』です。嵐の中にも、十字架の上にも、向こうから来てくださる方です。私たちに資格はいりません。理由はすべて、私たちでなく、キリストの側に、私達の正しさではなく、神の愛と憐れみにあるのです。

 ある詩人は、神を『天の猟犬』と表現しました。猟犬に追われたら怖いですが、天の猟犬は愛と憐れみの心で、どこまでもピタリと私達の後を追い、離れず、見捨てず、見放さず、私達を追い求める方です。

 

<私達の応答>

21 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。

 

 そして、弟子たちはイエスとともに嵐を超えたのです。私たちを苦しみと混沌の先の岸に、罪と死の先の天の御国に連れてくださる方です。

 今の、失望、困難、恐れ、諦め、といった嵐の中にあるのでしたら・・・一旦少しでも漕ぐ手を止めて、イエス様を船にお迎えした弟子たちのように、私の今の状況に関わってくださいと祈りたいのです。

 

 

 

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