8月27日のメッセージ

おざく台教会2023年8月27日「キリストと出会う⑯」

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<聖書:ヨハネの福音書6章>
35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。・・・48 わたしはいのちのパンです。・・・

51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。・・・53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。・・・54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

<生かされて生きる私達> 

 ご飯を食べる時に、いただきます、と言います。それには、ご馳走(これは苦労して走り回って食事は整えられた、という意味があります。)を用意してくださった方への感謝を本来は意味しますが、様々な生き物のいのちを頂いて生きている、という意味としても理解されるようになってきました。

 

 これは科学的にも正しい理解です。人間(動物)はエネルギー源や身体を造る材料となる有機物を自ら作り出すことができません。そこで、光合成によって有機物を作ることが出来る植物を摂取したり、植物を摂取して生きる他の動物を食べることで、必要な有機物を得て、エネルギーを得たり、身体を作ったりしています。(植物は生産者、動物は消費者として、食物連鎖を学びます。) 他のたくさんの生き物の犠牲の上に、私達の命があるのです。私達のからだのいのちは、決して一人で生きているのではなく、他の生命の犠牲のうえに生きている、生かされているのです。

 

 それは、身体だけではありません。私たちの内面、心、魂、も同じではないかと思うのです。

 

<いのちのパン>

 イエスは自分を、羊飼い、世の光、など7つのものに例えています。そして、今日の箇所では自分を「いのちのパン」と例えています。パンとは、ユダヤ人の主食であり、生きていくのに必要なものです。

 聖書に『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』(マタイの福音書4章4節) があります。イエスは食事があれば(転じて、物質的な必要が満たされていれば)人間はそれでいいとは考えなかった。身体と同時に、心も、魂も、満たされ生きている必要があると教えたのです。

 

 今日は歴史の中でも、移住職やレジャーといった生活面でも飛び抜けて充実しています。けれど、それで内面も、心も、人間性も同じようにかつてなく豊かになったかといえば、それはまた別の問題です。私達は、身体だけでなく、心に、魂に、日々の糧を、豊かさを得ているでしょうか?

 

 私は牧師をして、教師をしています。けれど、大切なのはどのような牧師であるか、どのような教師であるかです。私の短い経験からですが、本当に人を大切にして生きようとするならば、自分自身の心が、魂が満たされていないと、難しいのです。そうでないと、愛と謙遜と熱意を持って人に関わることが出来ないのです(逆に、人を粗末に扱ったり、自己中心な動機で人に関わってしまうのです。)私たちは、受けなければ、分け与えられない、満たされていなければ、流せないのです。

 

 私たちは、自分自身のためにも、また、隣人のためにも、心に、魂に、いのちのパンが必要なのです。

 

<わたしの肉>

 心の糧、魂の糧と聞いて、何を思い浮かべますか?もちろん、優れた芸術や書物に触れたり、貴重な体験をしたり、物事に挑戦し熱中したり、そういった感動や達成感も心を活発で豊かにしてくれます。それらは素晴らしいことです。けれど、聖書が言う魂の糧とは、キリストであり十字架です。

 

 イエスは私達の心と魂に必要なパンについて、「わたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。・・・人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。・・・わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。」と言われました。

 もちろんこれは比喩ですが、1つはっきりとしていることは、私達の身体が、他の生き物も犠牲によって生かされるように、私達の内面も、心も、魂も、このキリストの犠牲によってこそ、本当の意味で生かされるのだと、いうことです。

 

 教会では礼拝の中で聖餐式という大切な儀式があります。十字架でのキリストの犠牲を覚え、キリストの裂かれた身体を象徴するパンと、キリストの流された血を象徴するブドウ酒(液)を口に入れます。

 

 聖餐式は、基本的に洗礼を受けておられる方に向けてですが、それは特別な効能があるとか、宗教的に優れている証明だとかではありません。むしろ、キリストが私のために死んでくださったのだ、私は愚かで醜く、汚れ弱いかもしれないが、そんな私のためにもキリストは犠牲になり、生かそうとしてくださるのだということを、受け止める行為です。(キリスト教徒とは立派な人ではなく、自分には神の憐れみが必要だと、受け止めた人のことです。)

 神が、キリストが、あなたのためなら死んでも良いという、それほどまでに私達は大切な尊い存在である、これが十字架の、いのちのパンとしての、キリストの意味です。

  

 本当の意味で、自分を尊ぶことが出来る人が、他の人を尊ぶことが出来るのです。他の人を大切に出来ない人がいたら、(または自分が)そのような状態であるなら、その人は(その時は)、自分自身の尊さを、キリストの十字架を、もう一度魂の糧を、いのちのパンを受け止める必要があるのだと思います。

 

<天から下ってきた生けるパン>

 最後に、このパンは「天から下ってきた生けるパン」とキリストは言いました。

 私達の考える宗教は、私たちに、救いや幸福の台下として、様々な犠牲を要求します。多額の金銭、献身的な活動、悟りや理解、一部の人は救いや幸福を求め、喜んで犠牲を払います。

 けれどキリストは逆なのです。「天から下ってきたパン」なのです。私たちが努力して、苦労し天に上り、犠牲を払って手に入れるのではないのです。キリストが犠牲を払い、私達は受け取るだけなのです。

 「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」ピリピ人への手紙2章6〜8節

 

 イエスが自分を例えられた「わたしはいのちのパンです。」この言葉には、キリストの十字架の犠牲と、神の一方的な愛とが示されています。キリストは私達の魂を生かす糧です。キリストはまさに命をかけて、いのちを犠牲として、その「いのちのパン」を私たちに差し出されました。私たちは神にとってそれほどまでに大切な存在なのです。そのことを胸に刻み、神に応えながら歩めますように。 

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