4月28日のメッセージ

神からの約束(小田切武信徒説教者)
<ヨハネの福音書14章12節~14節>
14:12「まことに、まことに、あなた方に告げます。わたしを信じる者は、私の行うわざを行い、又それよりもさらに大きいわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」14:13「また私はあなた方がわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。」14:14「あなた方が、私の名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」

愛の中で、麗しいものの一つは親子の愛ではないでしょうか。よく見る光景ですが、幼子が母親の手にひかれて「よちよち」と歩いているのを見ると、何かほのぼのとしてきます。ところがその子が、お母さんを見失ったらどうでしょう。不安で泣きじゃくります。周りの人たちがどんなにあやしても、お菓子をあげても泣き止みません。しかしお母さんの腕に抱かれた瞬間その子は泣き止みます。母親のもとには安らぎがあるからです。今の私たちには、この幼子のような平安はあるでしょうか。どんなに恵まれた環境にいても恐れや不安にさいなまれていないでしょうか。何故なのでしょうか、それは私たちが母親を見失った幼子のように信頼すべきものを見失い、迷い出た状態にいるからではないでしょうか。

これは余談ですが、私には幼稚園の年長になる葉瑠ちゃんと言う孫がいます、家に来るなり、おじいちゃん遊ぼーよと言って私の周りから離れません。次から次と遊びを考えて私と遊びます、本当に私と遊ぶことを楽しんでいて親からは離れています。しかし息子たちが帰る時、私が葉瑠ちゃん、今日は帰らないで一人でお泊りしようと言うと絶対にうなずきません、「いやだ」の一言でさっさと帰りの支度をします、最近は少し、おじいちゃんに気を遣うようになったのか、その場で困った顔をして固まってしまいます。いずれにしても、自分を中心に遊んでくれるおじいちゃんと遊ぶ時間がどんなに楽しくても、そこは自分が一番安心できる場所でないことがわかっているのです。父親、母親と一緒にいることが自分に取って一番大切だということが良く解っているのです。しかし最近は悲しいかな、この子供の信頼を裏切る父親、母親による悲しい事件が起きていることは残念ではありますが。しかし、悲しいかな、これが人間の愛というものであります。人間の愛には限界があり決して信頼を裏切る事のない愛ではないのです。
では、私たちは何に対して信頼を置いて平安を得て行けば良いのでしょうか。
聖書には決して変わらず、裏切らず、見捨てない永遠の愛をもって、私たちに接して下さり、私たちの信頼を決して裏切ることのないお方がおられるということが書かれています。そのお方は「私たち一人一人を愛を持って創ってくださった創造主であって永遠に生きておられる神」であります。その神が、私たち一人一人と伴に歩んでくださり、私たち全てを祝福して下さるとの約束をして下さっています。今朝はこの約束について聖書の御言葉から学んでいきたいと思います。

今日の聖書個所を再度読んで見ましょう。(ヨハネの福音書14章12節~14節)
これは、なんと簡単で明快な約束でしょうか。これ以上に素晴らしく、しかもスケールの大きい約束があるでしょうか。私たちが創造主である神を信じ、祈り求める事で私たちに必要なものはすべて与えて下さると約束して下さっています。そして、それは神が私たちを通して神の存在をこの世に現わすためであると言われているのです。私たちを神とともに歩む者に変えて下さると約束して下さっているのです。さらに素晴らしいことに、この約束は決して難しい何かをしたらとは言っておられません、ただ単純に私を信じる者すべてに与える約束だと言われています。さらに、ヨハネの福音書15章7節8節を読むと「あなたがたがわたしにとどまり、私の言葉があなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたの欲しいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、私の弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
これは、私たちにとってなんと素晴らしく、私たちが歓びを持って受け取るべき約束の言葉ではないでしょうか。なぜなら、この希望に満ちた約束の成就は私たちの側にゆだねられているからです。そして決して難しいことを神は私たちに求めてはいません。私たち人間の親が子供に対して言うように、お利口にしていたら、テストで100点を取れたら欲しがっている物をあげますなどとは言っていません。あなたが私の思うとおりに生きるなら、清く正しく生きるならなどとも言っていません、今のままのあなたで良いのですよ、ただ単純に、私を信じ、私の御許に近づいて、その愛の内に留まっていれば良いのですと言って
います。そうすることで私の御言葉があなたの内に生かされ、実を結び、御言葉に信頼を置いて生きて行けるように私があなたを変えてあげます、私が約束します。そして何でもしてほしいものは私に祈り求めなさい、これが、私があなた方に求めていることだと言われています。他の聖書の個所に記されている御言葉をたどってみても、如何に私たちが神を信じ、従い、祈り、求めることを神が願い求めておられるかられかが多くの個所に記されています。神は私たちが神を信じ、頼り、祈ることを待っておられるのです。私たちが信じ祈る事で私たちの願いに応えて下さり、私たちを祝福し、子としてくださり、それを通してご自分の栄光、真実を持って私たちを見守ってくださる神の存在をこの世に現わそうとしておられるのです。これは逆に考えるならば、私たちは神に対しての祈りなくしては何事も達成はできないということでもあります。
神は再度ヨハネの福音書16章23節24節で「その日には、あなたがたはもはや、私に何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。」「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」

これらの言葉はイエスが神のご計画であり、ご自分に与えられた十字架を受け入れ、それに従う日が来た事を弟子たちに示した晩餐の席で、弟子たちに最後の言葉として語られたもので、ですからこれはイエスがどうしても弟子たちに伝え、約束し、励ましたかったことではないかと思います。
これは神様から私たちに与えられたなんと素晴らしい、希望に満ちた、約束ではないでしょうか。
そして、この御言葉は2000年前の一部の人たちにだけに語り、約束されているものではありません、今生きている私たち一人一人に向かって語り、約束して下っているのです。この約束に含まれる重みは、私たちを圧倒するかもしれません。さらに、私たちは神を信じて生活の中心にお迎えし、委ね、信頼を置いて生きていく事で、私たちは神が「私たちの願うところ、思うところすべてを超えて豊かに施すことのできる全能のお方」であることを知ることが出来るのです。この恵みを体験し、強められていく事が出来るのです。
このために私たちがするべきことは、幼子が母親の懐に抱かれるように、私たちを一方的に愛して下さる愛の神の前に飛び込んでいく事だけで良いのです。
最後に申命記1章30節31節の御言葉を読んで終わりにしたいと思います。
あなた方に先立って行かれるあなた方の神、主がエジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにして下さったそのとおりに、あなた方のために戦われるのだ。また荒野では、あなた方がこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くようにあなたの神、主があなたを抱かれたのを見ているのだ。

今週の黙想:
昨年引退表明をした車いすテニスの国枝慎吾さんを皆さんご存知だと思います、4回のオリンピックに出場して4個の金メダルを獲得し、車いすテニスの4大大会ですべて勝って生涯グランドスラムを達成した方です。国枝さんが世界ランク10位だったころメンタルトレーナーの指導で毎朝、鏡に向かって「俺は最強だ」と叫んでいたそうです。続けていると効果が出て、試合中の弱気が消えたとのことです。この結果が車いすテニスの第一人者として世界一に長く君臨する原動力となりました。
実はダビデも同じように、自分に、自分のたましいに語りかけていたのです。
我がたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる聖名をほめたたえよ。我がたましいよ。主をほめたたえよ。わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし。あなたの命を穴から贖い。あなたに、恵みとあわれみと冠をかぶらせ。あなたの一生を良いもので満たされる。

私たちも朝、鏡の前で「私は神様に守られ導かれている、安心していいのだ」と心の中で叫び一日の歩みを始め、夕にはダビデの祈りである、詩編103篇を読みながら、神様の大きな愛に包まれながら生かされている恵みに感謝の時を持って、眠りにつく1週間を過ごしては如何でしょうか。

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