7月9日のメッセージ

おざく台教会2023年7月9日「キリストと出会う⑩」

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<聖書>ヨハネの福音書4章

13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」 15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」 17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。 18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」・・・

28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。 29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」

 

<本当のあなたを見せられますか?>

 人間関係や自己開示に関する言葉で、「ジョハリの窓」 というものをご存知ですか?

解放の窓 自分も、人も知っているあなた

盲点の窓 自分は知らず、人が知っているあなた

秘密の窓 自分は知っていて、人は知らないあなた

未知の窓 自分も人も知らないあなた

 

 私達は皆、秘密の窓を持っています。そして、それが知られることをとても恐れます。先日、有名な女優さんと、著名なシェフのスキャンダルが報じられました。(スキャンダルとはギリシャ語で「罠」を意味します。) 著名人は印象や信頼が大切なのでしょう、多くの人がその方々へのイメージを損ない、失望を感じ、CMなどの契約が打ち切られたり、役職を辞任したりと、大きな影響があったようです。

 

 今日の女性は、今日の週刊誌やワイドショーが飛びつくような女性でした。当時の宗教的で厳格な中東社会において、5度も結婚と離婚をする、現在は結婚していない男性と暮らしている、それはスキャンダラスで、恥ずべきことでした。女性は、村八分のようになり、灼熱の昼間に人目を避けるようにして水を汲むような生活を送る羽目になったのです。

 

 ただ、思うのです。私たちの隠された姿が明らかになったとしたら、私達の過去、隠れて行ってきたこと、心の内側、それらを見せたとしたら、どうでしょうか?誰が表に立ったり、責任ある立場を任されたり出来るでしょうか?誰が、女優さんに、シェフに、この女性を責めることができるでしょうか?

 

 ですから、私達は必死に自分を隠すのです。アダムとエバのように、いちじくの葉をたくさん身にまとい(創世記3章7節)、秘密の窓を覆い隠すのです。それが見られてしまっては、誰も自分を受け入れてもらえない、誰も自分と関わってくれない、そのことが恐ろしいのです。

 

<サマリヤの女性の乾き>

 このサマリヤの女性は異性関係に奔放であり、自分の欲求や心を満たそうと、男性をとっかえひっかえしていた、そう理解されることも多いようです。(もしかしたら本当にそうだったのかもしれません。)
 けれど、改めて当時の文化を考えた時に、離婚を決めるのは男性の側です。男性の方が圧倒的に優位な社会だったのです。離婚歴がっても結婚したいほど、魅力的な女性だったのかもしれませんが、彼女は、結婚のたびに、男性の側から離婚され続けたのです。彼女がどれだけ相手を求めていても、結婚生活を過ごす中で、互いに知り合っていく中で、相手から拒まれ、捨てられ続けていたのです。誰も彼女を本当の意味では受け入れてくれなかったのです。

 

 ですから、周囲の人からも、結婚相手からも拒絶され続けてきた彼女が心から求めていたのは、暑い砂漠で乾き満たすための彼女の水瓶が象徴するのは、単なる異性ではなく、過去に過ちのある自分さえも受け入れてくれる存在だったのだと思います。

 

 そんなある日、井戸のそばでイエスが彼女に話しかけます。そして、彼女の過去を、現在をピタリと言い当てるのです。彼女は驚いたのと同時に、この人も私を責め、攻撃するのだと身構えたでしょう。過去の苦々しい思い出や、心を深く傷つけた言葉が、思い出され、体と心を強張らせたでしょう。

 

 けれど、イエス様は普通に彼女と話し続けるのです。彼女と正面から関わり続けるのです。彼女の過去を知っていながらも、他の人のように、顔をしかめ、背を向け、否定の言葉を浴びせかけたりはしないのです。むしろ、彼女を見つめ、向き合い、キリストである自分が、あなたを見捨てないのだと、神はあなたを見放さないのだと、身をもって示すのです。

 

 今まで、捨てられてきた彼女にとって、見放されてきたこの女性にとって、神の遣わした救い主が自分のような者のところに来てくれた。背を向け見捨てるのではなく、顔を向け、まっすぐに関わってくれている。これは大きな慰めの体験、そして救いでした。そして、興奮のあまり、彼女は水瓶を置きっぱなしにして、自分を見下し、拒んでいた人々に、驚きの出来事を伝えるのです。

 過去に数多くの失敗があり、人々から拒絶され続けてきた自分を、それでもキリストが、神が、受け入れてくれたこと、それが彼女の心を満たし、生き方を変えたのです。

 力がなくとも、魅力や功績がなくとも、愚かでも、醜くても、失敗や傷が多くても、それでも受け入れられ、尊ばれる。私達に全てにとっても、このような存在が必要なのではないでしょうか?

 

<私達の全てを知る愛の神>

 神様は私達一人ひとりの全てをご存じです。(マタイ10:29〜30、詩篇139:4)人が気づかない、あなたのがんばりや、忍耐や、誠実をしっかりと見てくださっています。それを心から喜んでくださる。同時に、私達が隠したくなるような私達の全てを、過去の行いをも、心の中の思いをも、ご存知です。

 

 だからと言って、恐れたり、隠れたり、離れないでください。いちじくの葉のように、何かで隠したり、立派なふりをしなくてもよいのです。
 もし神が、警察官か、裁判官か、閻魔大王のような神ならば、恐ろしいでしょう。けれど、私達の神は、慈しみ深い神です。神の心は私達の狭く限られた心よりも、はるかに広く大きく深いのです。

 

「たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。」第一ヨハネ3章20節

 

 イエス様は私達が正しいから、立派だから、優れているから、愛するのではないのです。失敗や、過ちや、醜さがない人だけチェックして、を受け入れてくれるのではない。何もかもご存知で、私達の隠れた暗い秘密を知っても、それでも、見捨てず、見放さない、愛に満ちた方なのです。

「わたしはけっしてあなたを離れず、あなたを捨てない。」(ヘブル13:5)

 

 ですから、私達は自分で自分を否定することからも、人を罪深いだとか、汚れているだとか否定することからも自由になりたいのです

 宗教改革者マルチン・ルターは、自分自身を、クリスチャンのことを「赦された罪人」と言いました。

 

 ヨハネ8章で、不倫の現場で捕まった女性が、石打ち刑にされそうな時、イエスが、あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(7節)言われ、誰も石を投げずに去っていった場面を思い出します。

 

 キリストは、サマリヤの女性にも、不倫で捕まった女性にも、石を投げず、むしろ慈しみと愛を示されました。私達は自分にも、人にも石を投げる必要はないのです。あなたの、あなたの隣の人の、すべてをご存知の神の心は大きく、広く、深く、あなたを、隣の人を、心から愛しておられるのです。

 

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