5月21日のメッセージ(ヨハネの福音書1章43〜51節)

2023年5月21日「キリストと出会う④」ヨハネの福音書

 

 

<聖書>

43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従ってきなさい」と言われた。44 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」

 

47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、本当のイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」

 

49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

 

 

<見ることは、心をかたむけること>

 今日の聖書の箇所には、『見る』という言葉が何度も使われています。

 以前何かの研修で「今日ここに来るまでに、どのくらい赤いものを見ましたか?」と尋ねられ、ほとんど答えられませんでした。そして、「明日は赤いものを探しながら来てください。」と言われ、その通りにすると、実にたくさんの赤い色が目に入ってきました。少し心を傾けるだけで、見える世界が全く違うのです。(娘は花が好きなので、たくさんの種類の花を見つけます。私も真似をして歩いてみると、短い距離の間に、実に色鮮やかで多様な花があることに驚かされました。)

 

 

<来て、そして、見なさい:43〜46節>

 ナタナエル(おそらく12弟子のバルトロマイ)はピリポから、約束されていた救い主に会ったと聞きますが、「ナザレのような田舎なんて」と鼻で笑います。彼なりの常識や偏見もあったのでしょう。

 それでもピリポは言うのです「来て、そして、見なさい。」どうか自分で見て、あなたの心を傾けて、この人がどんな方か判断してください、と励ましたのです。

 

 この部分がわざわざ聖書に記されている意味を考えたいのです。この部分には、キリストは出てきませんし、キリストの言葉でもありませ。けれど、ヨハネは大切な言葉として聖書に加え後の私達に伝えているのです。

 神がピリポを通して、ナタナエルに、そして私達全てに語っている言葉だからだと思います。「来て、そして、見なさい。」自分の常識にとらわれず、無関心になるのでもなく、体を起こし、一歩踏み出し、心を傾ける時、自分の今までを振り返っても、私達が大切なことを知る時とは、あきらめやそれまでの常識を超え、一歩踏み出して、自分で見ようとした時だったように思います。

 

 同時に覚えておきたいのですが、 私達は、高い山や、空高くにまで必死に登って神を見るのではありません。ファミリータイムで話した「ヤコブのはしご」のお話のように、「はしごは(天から)地に向けて

立てられている。」(創世記28章12節)のです。

 

 神が天から下ってきたから、人として生まれてきてくれたから、ナタナエルは出会うことが出来た。私達が行く前に、神は来てくださる方です。

 

 

<わたしたちを見つけてくださるイエス 47〜48節>

 ナタナエルがイエスに会いにいくと、イエスはナタナエルを褒め、不思議がるナタナエルに、「いちじくの木の下にいるのを見た」と言うのです。もちろんイエス様に千里眼的な力があっても、不思議ではないのですが、もっと大きな意味があります。

 

 いちじくの木とは、イスラエルを象徴します。また、この時代は樹の下で聖書を学んだり議論したりする習慣がありましたから、イエスのこの言葉は、あなたは神様の約束を待ち望んでいるんですね、私はあなたのその心をちゃんとわかっていますよ、というメッセージとしても受け止めることが出来ます。

 

 当時の若者の中には、ギリシャやローマの文化に夢中になり、神を忘れてしまう人も多くいました。神を待ち望み、信仰を学んでも(まるでピリポがナザレを笑ったように)、ガリラヤ地方のような田舎家から何の良いものが出るだだろう!と、エルサレムを始め多くの人々は鼻で笑っていました。

 

 ナタナエルにも様々な葛藤があったでしょう。けれど、イエス様は、自分を見てくれていた。自分の心を知ってくれた。笑わずに、認めてくださった。神の子キリストの目が自分に注がれ、その心が自分に傾けられていた。「どうして私をご存知なのですか」と言ったナタナエルは、自分は見つけられた、という感動があったのだと思います。

 

 神様は私達をご存じの方です。私達の心を知っていてくださる。もちろん、弱さや醜さもご存知ですが、小さなきらめきのような、誠実さに目を留めてくださる、小さな短い祈りもしっかりと耳を傾けて聞き、わずかばかりの人への愛の行為を喜んでくださる。神様の眼差しは、心は、いつも私達に注がれているのです。

 

 

<希望を見せてくれるキリスト 49〜51節>

 ナタナエルは、イエスに対して、「神の子、イスラエルの王」と呼びます。人は自分が見たいものを見ます。自分が期待するものだけを、見出そうとします。ナタナエルの答え「イスラエルの王」には、ローマに支配され苦しめられている自分たちの国を強く、大きくし、繁栄させてほしい、そんな願いが込められていたようです。

 

 一方で、イエス様は、それよりもさらに素晴らしいものを見せると約束するのです。

「それよりもさらに大きなことを見ることになります。・・・まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

 

これは創世記でヤコブが見た景色であり、ユダヤ人なら誰もが知っていました。

「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」(創世記28章12節)

 

 イエスは、天と地をつなぐはしごが、人の子、つまり自分だというのです。そして、イエスは貧しいものや、見下された人、失敗や罪のある人に目を向けました。その梯子は、地に、地の最も低いところに向けてかけられているのです。、

 

イエスは最後の晩餐で、十字架の前に言います。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」ヨハネの福音書14章26節

 

逆に言えば、イエスを通してなら、どんな人でも、天の父に出会えるのです。何を持っていても持っていなくても、何が出来ても出来なくても、失敗や傷や罪があっても、いいのです。

 

私達は、イエスの背を踏んで、イエスの十字架の上を通って、神と出会うことができるのです。

 

 私達はナタナエルのように、繁栄や成功、安定を求めます。それは悪いことではありません。

けれど更に大きなことがあるのです。私達が、大切な人たちが、天とキリストというはしごでつながることです。誰もが生きる意味や希望を見出すこと。そして、生きた先にある希望を持つことです。

 

その大切なことに、目を、心を、向けながら歩む一週間となるように祈っています。

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