5月14日のメッセージ(母の日記念)

2023年5月14日「キリストと出会う⑤」

IMG_20230514_075550

<聖書>

1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。 2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。 3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。 4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」 5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」 6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。 7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。 8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。 9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、―しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた―彼は、花婿を呼んで、 10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」 11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 

 

<母の日に寄せて>

 今日は母の日です。今日は母の日です。これは教会から始まった習慣だそうです。19世紀のアメリカ、アン・ジャービスさん(牧師の妻でもありました)を中心とした女性たちが、社会福祉のために奮闘し、南北戦争では敵味方関係なく負傷兵の治療に当たりました。アンさんの死後、娘さんが追悼記念会を主催し、好きだった白いカーネーションを教会に飾り、女性達が、神と人を一生懸命に愛したことを記念しました。

 男性が争いばかりを起こしがちな一方で、女性はキリストの愛や柔和さや平和を示すのに非常に長けています。アンさんの例が示すとおり、キリストのいのちが、女性の言動を通して実現する、キリスト教的に言うなら、受肉するのです。(受肉は英語でインカ―ネーションと言います)

 

 母の日というのも、その本来の意図としては、(もちろん母への感謝を表しつつ)、女性の存在を尊び、その素晴らしい姿に倣う日であるのです。おざく台でも、全ての女性への感謝を込めてお花とカードを用意させていただきました。そこには、全ての女性は、身体的な意味だけでなく、精神的にも、霊的にも、いのちや祝福を生み出す存在です、といった旨を記させていただきました。

 

 私達もまた、自分たちのこだわりや欲望といった狭い世界に生きるのではなく、アンさんのように、キリストが示したような愛の実現を大切に、自分の引いた線も、誰かが築いた壁も、しなやかに飛び越え、広く、開かれて、歩んでいきたいと願わされます。

 

 

<イエスの母マリア>

 イエスを産んだマリアの姿は、アンさんのようにしなやかに生きた人でした。聖書で描かれるマリアは、聖母マリア様、という崇高なイメージよりは、私達と同じく生身の人として、弱さを抱え、戸惑い、勘違いもし、それでも強くしなやかに生き、神の道を選び取り、周囲への祝福となっていった方です。

 

 当時の結婚式は、村をあげて祝い、お祝いが1週間も続いたそうです。世話役もいて、何人もが協力して祝いの席を整え続けました。マリアも、この祝いに関わっていたと考えられます。

 ところが祝いの席に欠かすことの出来ないぶどう酒が足りなくなってしまう。このままでは、新郎新婦が恥をかいてしまう。そこで、マリアは『ぶどう酒が足りません』、とイエスに言います。普通の感覚なら

ば、イエスに頼んでも仕方がない。しかし、このイエスならなんとかしてくれる、そう自分の息子に期待しました。

 

 ところが、イエス様は、『女の方(これはクレオパトラに使われた敬語です)。わたしとあなたと何の関係がありますか?』と言うのです。そっけないというか失礼なにも聞こえます。普通ならば、『親子です』と答えるでしょう。(マリアがすぐ他の人に『あの方の言うことを何でも何でもしてください。』と他の人に指示していますので、イエス様も案外、腕をまくり立ち上がりながら言ったのかもしれません。)

 

 もちろんこれはただ母への失礼な言葉ではありません。なぜならこう続くのです。 『あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。』イエスは、『私の時はまだ来ていない。』と続けたのです。ですからこの言葉は、『あなたの関心と、私の関心に、何の関係があるでしょうか?私達の関心事は別ですよ。』と読まれます。

 なぜなら、時とは、イエスに使われる場合は一貫して、苦しみの時、受難の時、十字架の死の時を示します。イエスのこの言葉は、『私の力が何のためにあるか、私が何に心を向けているか、それは、宴会のぶどう酒の欠乏ではなく、十字架のこと、あなた方の本当の欠乏のことなのですよ。』という意味なのです。

 

 少し戻りますが、このヨハネの福音書1章は、創世記の1章の創造の7日間が意識されて、キリストによってこの世界が創造されたことが示されていました。 創世記では素晴らしく出来たと、神は7日目に休むのですが、ヨハネの福音書では違います。このカナの婚礼が7日目です。キリストは休むことが出来ません。

 休んではいられないのです。非常に良かった世界と人間が、罪に歪んでしまったから。光の中にいた私達が、闇の中に迷い込んでしまったから。キリストは休んではいられないのです。

 

 イエス様は、ユダヤ人の清めのしきたりに従って用意されていた6つの水瓶に水を満たすように言います。6は完全数の7に1つ足りません。私達が自らの力で自分を清めようとする方法では十分ではないと言うのです。

 そして、水をぶどう酒に変えます。ぶどう酒とはその赤い色から、聖書で象徴的に用いられます。イエスはぶどう酒を、十字架で流す血にたとえ、最後の晩餐の席で言うのです。『食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしのによる新しい契約です。』(ルカ22章20節)

 

 これがイエスの関心でした。私達がいろいろなことを神に願いますが、イエスは、いつもいつも、私達のために死ぬことを、そのために自分の力を全てを、注ぐことを考えておられたのです。

 

 もちろん私達は、神様に沢山の願いを持っていいのです。イエス様は必要なものはちゃんと聞いてくださる。一番良いように応えてくださる。ですから、安心して、あなたの願いを、あなたの困りごとを、悩み事でも、不安でも、祈ってみてください。『ぶどう酒が足りません。』と。

 

 ただ、本当に意味で、私達に必要なのは、足りないぶどう酒でも、清めのしきたりの水でもないのです。イエス様が、人として生まれたのは、7日目も休まず、枕することもなく、歩み続けたのは、十字架のためなのです。私達のために死に、いのちを与えることだったのです。

 

 私達が求めるものと同時に、神が命をかけて、命を捨てでも与えたいものがある。私達の願望やこだわりよりも、更に大きく、広く、深い、神の心があるのです。アンさんは、マリアさんは、それを受け止めた方々でした。 

 

 

<あの方が言うことをなんでもしてください。>

 マリアは、働いていた人達に言います。『あの方が言うことをなんでもしてください。』そして、彼らも奇跡をの目撃者となっていきました。これは、天使の言葉を聞き、自分の都合や思いよりも、きっと神の思いのほうが良いに違いないと信じ、受胎告知を受け入れ、その後の苦難の道をも歩んでいった、マリアさんだからこそ言えた言葉だと思います。

 

 『あの方の言われることを、なんでもしてあげてください。』このマリアさんの言葉は、私達にも向けられています。狭く小さい自分のを広げ、しなやかに、キリストの愛の心に生きるようにとの招きなのです。

 

 私達のために、苦しみ、十字架で死なれることを関心事とし、それほどまでに私達を大切に想ってくださるキリストに、私達はどう応えましょうか?

Top