5月7日のメッセージ キリストと出会う③

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2023年5月7日「キリストと出会う③」

<聖書>

40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。41 彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った」と言った。42 彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」

 

 

<私達が聞く4つの声>

 中学校の教師をしている職場で「園長先生」と呼ばれることがあります。「もう園長ではないんだけどな・・・」とは思いますが、はじめてそう呼ばれていたときのことを思い出しました。

 幼稚園免許を取得し、試行錯誤を繰り返しながら奮闘しつつも、状況の難しさに挫けそうになる度に、「園長先生」と呼ばれることで、「自分は相手にとって大切な存在なのだ」、「自分には大切な役割が与えられているのだ」ということを思い出させてもらいました。

 

 人は4つの声を聞くと言われます。

1.自分の声  2.人の声  3.悪魔の声  4.神の声

 

 私達はいろいろなことを語りかけられ、いろいろな呼ばれ方をすると思います。自分の声も人の声も有益です。それが自分自身を支えたり、良い方向に導くこともあるでしょう。けれど、時にそれらに振り回されたり、縛られたり、それらの声によって自分を見失ったりすることもまたあるのです。

 

 キリストの有名な問いに、「人はわたし(キリスト)を誰だと言っていますか?」と尋ねた後、「それではあながたはたわたし(キリスト)を誰だと言いますか?」というものがあります。

 同じように問いたいのです。「人はあなたを誰だと言いますか?」そして「あなたは、あなた自身を誰だと言いますか?」あなたは自分のことをどのような存在としてみていますか?そして、「神はあなたを誰だと言っていますか?」

 

今日は葦<シモン>という名を持ちながら、新たにペテロ<岩>という名をもらった人の話です。

 

 

<神はあなたを誰だと言っていますか?>

 キリストの一番弟子、シモン・ペテロは本名では(苗字と名前では)ありません。

当時は、「ヨハネの子シモン」のように、◯◯の子、△△△、と呼ばれていました。(今は名字になっている、デビッドソン、ピーターソン、ジョンソン、ヨハンセン、アンデルセンなど)

 

 そして『シモン』は、葦を意味する名前でした。パスカルが「人間は考える葦である」と言ったように、弱さを表現するとも言われます。

 ペテロには、体力があったでしょうし、漁師としても、人間としても優れた面もあったでしょうが、恐れたり、逃げ出したり、勘違いしたり、裏切ったりと、最もたくさんの失敗をおかし、弱さをもった人物として聖書に描かれています。私達の代表のような人です。

 仲間内からもそのような評価がされ、それを気にして必死で挽回しようと、何度も先走ったような言動をしていたのかもしれません。

 

 人からの評価は大切です。自分で自分をどう考えるかも大切です。けれど、もっと大切なことがありま

す。それは、神があなたをどう言うかです。

 

 そのシモンに、イエスはヘブライ語(アラム語)でケパ、ギリシャ語でペテロ、岩と名付けるのです。

人はあなたを弱い存在、ゆらぎやすい存在、失敗が多く頼りない存在と言うかもしれない、いや実際にそういう面もあるかもしれない、けれど、私はあなたを岩という。大切であり、素晴らしい役目を持った、尊い存在なのだ、そのようにキリストはペテロに語りかけたのです。その言葉は、どれだけペテロを支え、慰め、勇気づけ、支えたでしょうか。

 

 私達には、ペテロという呼び名は与えられていませんが、イエス様は別の名で呼びます。

『あなたは私の愛する子』(マルコ1:11)

『あなたの神、主は、・・・あなたを選んでご自分の宝の民とされた。』(申命記7:6)

『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。・・・わたしはあなたがたを友と呼びました。』(ヨハネ15:13,15)

『 あなたがたは、地の塩です。・・・あなたがたは、世界の光です。』(マタイ5:13〜14)

『あなたは「わたしの喜びは、彼女にある」と呼ばれ』『イザヤ62:4)

聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。』(第一コリント1:2)

 

 私達は、このように神から呼びかけられているのです。神の子であり、神の宝であり、命を捨てるほどの友であり、神の喜びであり、地の塩・世の光として信頼され期待され、聖なるもの、神の選んだ特別な存在とされています。

 あなたは神にとって大切な存在であり、いのちを捨てるほどに尊く、信頼されているのです。 

 

 

<神は先に名を呼び、呼び続ける>

 いえいえ、私はつまらない存在です。失敗や過ちも多いのです、人には言えない醜さや恥ずかしさを抱えています。そう言いたくなる気持ちはわかります。

 けれど、ペテロにいつ岩と言われたか、思い返してください。

コリント教会がいつ聖徒と、言われたか考えてみてください。

 

 他の福音書では、キリストと出会って約3年後、「あなたはわたし(キリスト)を誰だと言いますか?」と言う問いに、「あなたはキリストです。」とペテロが答えた際に、「ペテロ」という名が与えられたように読めます。ペテロが立派な答えをしたから、ペテロに大切な役割が与えられた、そうも考えられます。

 けれど、ヨハネの福音書を読んで分かるのは、最初からペテロと呼ばれていたことです。

イエス様は弟子たちの裏切りや失敗さえも予告される方です。ペテロがこれからおかす数々の失敗も、やがての彼の裏切りも、ちゃんとわかっています。それでも、イエスは先立って、岩と呼ぶのです。そして、ヨハネの福音書では、この最初の場面からずっと、シモンは、ペテロと、またはシモン・ペテロと言われ続けています。シモンはどれだけ失敗しても、ペテロと呼ばれ続け、人の見方、自分の考えでなく、神が自分をどう見てくださっているかに立ち返り続けたのです。

 

 

 コリント教会などは、反抗的で、高慢で、神より自分を誇り、貧しい人を蔑ろにする、最低の教会でした。けれど、パウロは呼びかけます。『聖徒』と。神がそう見てくださっている、あなたはいばらず、マウントを取らずとも、尊い存在である。人を見下すのでなく、へりくだり人を活かす役目が与えられている。神の見るあなたに戻りなさい、神の呼びかけるあなたとして生きなさい、そうパウロは語りかけたのです。

 

 シモンや私達が立派になったり、何かを達成したり、悔い改めたりする前から、シモンをペテロと呼

び、コリント教会を聖徒と呼び、私達を、神の子、宝、友、地の塩、世の光、とよぶのです。

 

 私達は正しく理解したから、立派な姿に変えられたから、神の宝や喜びとなるわけではない。愚かで醜いままで、神に愛され、尊ばれ、もったいないような名で先に呼ばれる。その愛と信頼を受け、後からその名前に、ふさわしい存在へと変えられていくのです。どうか順序を間違えないでください。イエスとの出会いは、恵みから始まります。

 

 私は(私達は)今の仕事をやがて続けられなくなり立場を失います。今まで簡単にできていたことが難しくなり、自信も持てなくなるでしょう。人のために一生懸命だったのに、人からの支えでやっと生きるようになる。得ていたもの、積み上げてきたものを、手放したり、引き継いだりして、自分には何も残らなくなります。かつて呼ばれていた、立派な名では呼ばれなくなる日が来るでしょう。

 

そんな時でも、キリストはあなたを、愛する子と、友と、宝と、喜びと、呼び続けてくださるのです。

 

ハイデルベルグ信仰問答問1:生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか?

答:わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。 

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