毎日の聖書5月1日〜

おざく台教会毎日の聖書 5月1日~

 

1日1章の聖書通読を用意しました。短い励ましの言葉と、それに沿った聖書から神様の言葉を添えました。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ

 

5月1日(月)伝道者の書(コヘレトの言葉)1章

2〜3節「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。 日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。

 伝道者は言います。空(くう)の空(くう)だと。実体がなく虚しいと。ただしこれは、神なき生き方の虚しさだとされています。生きていれば必ず労苦があるのです。悲しみや痛みも多く経験します。けれど、神がともにいるならば、けっして空虚ではない。労苦にでさえに意味が、悲しみの毎日でも生きる価値が必ずあるのです。あなたの今日は、神が「生きよ」と言って、愛と信頼をもって備えてくださった一日なのです。

 

 

5月2日(火)伝道者の書2章

18節「私は、日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。後継者のために残さなければならないからである。」

 著者(ソロモン王とされています)の言うことは、たしかにそうかも知れません。けれど、まことの王でありながら、自分を無にし、人々のために、身を粉にし、自分の命さえ惜しまずに十字架で与えてくださったキリストのことを私達は知っています。その方は言われました。「受けるよりも与えるほうが幸いである。」使徒の働き20章35節

 

 

5月3日(水)伝道者の書3章

1〜8、11節「1 天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。2 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。3 殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。4 泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。5 石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。6 捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。7 引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。8 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。・・11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。

 タイム・イズ・マネー、タイムパフォーマンスといった言葉のように私達は時を大切にし、思うままに活用したいと願います。けれど、どうか忘れないでください。愛と配慮をもって、最善の時を定めてくださっている方がおられるのです。

 

 

5月4日(木)伝道者の書4章

12節 もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。

 聖書はいつも「あなた」ではなく、「あなたがた」と私達に語りかけます。人は他者を必要とするものとして、神に創造されました。それは、家族であり、親族であり、友人であり、同僚であり、神にある家族(教会)です。今日、誰かのために祈ってみてください。そしてもう一つ、小さなことでも、誰かに頼ってみてください。

5月5日(金)伝道者の書5章

1節「近くに行って聞くことは、愚かな者たちがいけにえを献げるのにまさる。」

 ヨハネの福音書に出てくる、マルタとマリアのお話を思い出しますね。私達は神に何かをすることを大切だと考えます。それは決して間違いではありません。けれど、神のそばでどうあるか、はそれ以上に大切なのです。静かに、神に近づき、神の語りかけに、耳と心を澄ませてみてください。

 

 

5月6日(土)伝道者の書6章

12節「だれが知るだろうか。影のように過ごす、空しい人生において、何が人のためによいことなのかを。」

 伝道者の書の著者とされる栄華を極めたソロモン王ですが、誰にもおとずれる死という現実が彼を悩ませました。しかし、まことの王、真の伝道者イエスは宣言しました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)死は終わりではないのです。だから、労苦があっても、損のような道でも、生きる意味があるのです。

 

 

5月7日(日)伝道者の書7章

13節「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものを、だれがまっすぐにできるだろうか。」

 この日の下の生活が全てなら、死によって全てが無に帰するなら、好き勝手に生きても良いのかもしれません。しかし、神のみわざに目を留め、永遠の視点で生きるなら・・・あなたの今日はどう変わるでしょうか?

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