10月16日の礼拝メッセージ

202210月16日  マタイの福音書〜神様の良い知らせ⑨

<聖書:マタイの福音書9章9〜13節>

9:9 イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った9:10 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた9:11 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です9:13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

<本当の教会>

 マタイの福音書を1章ずつ読みながら、良い知らせ、福音(英語でゴスペル、原語のギリシャ語では、ユーアンゲリオン・エヴァンゲリオン)について、教えられていきます。

 NHK朝の連続テレビ小説「舞い上がれ」は五島列島が舞台です。主人公が、海沿いの美しい教会の礼拝(ミサ)に参加して、聖歌を歌いお祈りするシーンが出てきました。同じNHKでは旧統一教会の問題を契機に、カルト、宗教2世などの特集番組もあり、大変有益な内容ですが、「教会」がネガティブな言葉として語られるため、「舞い上がれ」でのあたたかな教会の場面に励まされました。

 今日読んだ箇所にも教会が出てきますが、お分かりになりましたか?教会とは何でしょう?建物?団体?儀式?それらも正しいのですが、教会の原語はエクレシア、エク(外に)+カレオー(呼ぶ)であり、呼び出された人の集まりを意味します。イエス様に呼ばれた人達の集まりが、教会です。

 

 不思議なことに今日の個所でイエス様に呼ばれたのは、食卓を囲んだのは、罪人と呼ばれる人達でした。(「ざいにん」でなく「つみびと」) 当時も今も、同じテーブルを囲み一緒に食事をすることは親密さの証です。「罪人」と呼ばれ、宗教制度を守らない人や守れない人、宗教的にも社会的にも正しくない人、とは食事をいてはいけない、そう当時の宗教指導者・パリサイ派(「分離する」という意味)は教えていました。けれど、イエス様は罪人とされ、見下された彼らを呼び、食卓を囲み、小さな「教会」を作られたのです。

<罪人を招くイエス様> 

9:9 イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った

 普通ならば、神殿に座っている人、役所に座っている人、など宗教的な人、地位の高い人、才能のある人、などに声をかけるでしょう。けれどイエス様は収税所の取税人を呼ぶのです。

 

 取税人とは、当時ユダヤを支配していたローマ帝国への税金を集める仕事です。重い税を課してユダヤ人を苦しめえいたローマ帝国への税金をユダヤ人が集めて暮らすのですから、いわゆる裏切り者・非国民です。しかも、ローマ帝国を後ろ盾に多く奪ったり、払えない人に高い金利で金を貸し、財産や土地を没収する取税人もいました。社会的にも宗教的にも、神の目にも人の目にも、正しくない悪人のはずです。普通は彼らを見たら、睨みつけるか、目を背ける。けれど、イエス様は、マタイを呼ぶのです。

 なぜ取税人マタイなのでしょう?理由は分かりません。少なくとも、地位や、才能や、人格や、利用価値があるからではない、取税人はそういう人ではないのです。マタイ自身も分からなかったでしょう。けれど、マタイには、呼ばれる側に理由がない・・・このことが大切なのです。

 

 私たちは何かを手に入れるためには代価を差し出します。多くの宗教でも、交換条件での祝福や救いをときます。私たちの持つお金や時間、奉仕や貢献、など様々な生贄を差し出すことで、立派な生活や、蓄えられた知識や、優れた人格、それらを示すことで、私たち側の理由で救われる。(逆に、それらが十分でないと救われない、悪いことが起きる、天国に行けない・・・それで不安になり、必死で宗教活動を行う・・・)

 けれど10〜14節をご覧ください。 イエスは、罪人と食卓を囲み批判された時、旧約聖書の言葉を引用し答えます。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』

 いけにえは好まないとあります。神は犠牲を求めていないのです。カトリックの若松英輔さんはNHK「こころの時代〜宗教・人生〜」の中で、「救いは絶対にお金で買えないのです。なぜなら神はお金はいらないのです。」と強く語っていました。聖書の神様は、交換条件の神ではないのです。

 

 神様が好むのは「あわれみ」です。私たちの神は、哀れみの神です。マタイが神の目に「病人」(12節)であったから、罪という病で、自分も人も苦しめていたから(東方正教では罪を魂の病と理解します)、彼を憐れみ、「かわいそうに思」(36節)い(内臓が引き裂かれるほどの痛み、が原意) 彼を呼ばずにはおれなかったのです。

 これを聖書では「恵み」といいます。恵みとは、「受ける理由や価値のない者に、一方的に与えられる恩寵や祝福」を意味します。受ける側のマタイでなく、与える側のイエスに理由がある。マタイが何かを差し出す交換条件でなく、神が無条件に与えるのです。この恵みこそがカルトとキリスト教を分けるのです。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」エペソ人への手紙2章8節

 

<恵みから始める>

 過去にどんな失敗や過ちがあってもよいのです。心に醜さや汚れがあってもいいのです。能力や知識やお金が要求されてはいないのです。それでもイエスは呼んでくださる。立派になったから、教会に行けるのでない、正しくなったから、洗礼を受けられるのではない。まず呼ばれ恵みを受けるのです。

 私たちが求める先に呼んでくださる方に、悔い改める先に十字架で罪を背負ってくださる方に、病に気付く先に魂の医者として来てくださる方に頼るのです。恵みはいつも先行するのです。

「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために(十字架で)死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」ローマ5章8節

 

 マタイという名は「神の恵み」を意味します。マタイは恵みによってイエスに呼ばれ、イエスの弟子になりました。ただの弟子でなく、レオナルドダビンチの最後の晩餐の壁画でも有名な、12弟子の一人にです。人に仕え、人に尽くす人になりました。伝承ではアフリカのエチオピアにまで行き殉教したとされています。またこのマタイの福音書を書いて、今私達がそれを読んでいるのです。この全ては「神の恵み」への応答でした。

 収税所に座っていたマタイは、イエスのテーブルに座り変わりました。信仰とは、イエスと同じ食卓に着くこと、と、表現した人がいます。(食卓は、イエスとの絆を、天国を、天での祝宴を示すものです。)

 私たちはがんばって救いにたどり着くのではない。まずイエスと出会う。まず恵みを受ける。まず救われる。そして、ゆっくりとでも変えられていくのです。大切なのは、私たちがどこに座るかです。

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