10月9日のメッセージ

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2022109日  マタイの福音書〜神様の良い知らせ

<聖書:マタイの福音書8章1〜4節>

8:1 イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。8:2 すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」8:3 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。8:4 イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」・・・・・8:17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

 

<罪とは魂の病>

 マタイの福音書を1章ずつ読みながら、良い知らせ、福音(英語でゴスペル、原語のギリシャ語では、ユーアンゲリオン・エヴァンゲリオン)について、教えられていきます。

 今日の箇所を読みながら、3年前、コロナの初期の頃を思い返していました。あの頃、私たちはみな恐れや不安に支配されていました。距離の確保が必要とされ、顔を合わせて会うことすらできなくなりました。互いに疑心暗鬼になり、互いに見張るようになりました(自粛警察という言葉もありましたね)。皆自分のことに必死で、マスクやトイレットペーパーを奪い合っているというニュースも聞きました。感染された方や感染させてしまった方がいれば、必要以上の怒りや誹謗中傷が向けられたり、・・・ある人が、コロナよりも、人間のほうがよっぽど怖い、と言っていました。確かに、感染症自体の身体へのダメージも恐ろしいのですが、感染症が、私たちの心や、周囲との関わりに与える影響もまた恐ろしく感じました。

 病とはキリスト教の伝統において身体だけのものではありません。(とくに東方正教では)、私たちの心や魂は、罪という病にかかっていると理解されていました。(罪とは具体的違反行為や犯罪行為だけではないのです。)神への反抗、自己中心さ、高慢さ、妬み、恐れ、悪への傾向、愚かさ、諦め・・・それらが私たちの魂をむしばみ、心を、思いを、考えを、歩みをおかしくし、他者との関係にも深刻な影響を与えます。コロナ、戦争、生活の様々な困難などをきっかけに、私たちの内側の罪という病は、様々な症状で外側にあらわれる、そう理解されました。

 今日の登場人物は「ツァラアトに冒された人」(2節)です。ツァラアトは新共同訳では「重い皮膚病」となっています。様々な病がある中で、この病は旧約聖書レビ記13章などに特別詳しく記されています。この病に一度罹ると、完治するまでは身体的にも宗教的に汚れた存在として、神殿や、家族や友人などのいる自分の家や村に入ることが出ず、人に触れてその汚れをうつさないように、隔離されて暮らさねばなりませんでした。

 コロナのように命に関わる病ではないのに厳しすぎる、そう感じるかもしれませんが、この病には特別な意味がありました。人の魂の病である罪が、その汚れが、他の人にも影響を与えること。その汚れがある時、本当の意味では神の前にも、人の前にも出られないこと、を表す具体的な教材でもあったのです。(そしてイエスが示したのは、ツァラアトは限られた人ですが、私たちは皆、罪という病にかかっているということでした。)

 

 しかし時には、何かしらの宗教的な罪を犯したから神罰としてこの病になるのだ、という極端な理解がされる場合もあり、疑いの目で見られることもありました。そこまででなくても、こんな特別な病にかかる者は、神から遠い存在、神から愛されていない、見放された存在として、低く見られることもしばしばでした。

 この男性は、病の苦しみだけでなく、隔離される孤独、今までの生活が出来ない焦りや失望、そして、周囲の偏った理解により、心までが傷つけられたのです。

(病と罪についての確認ですが、私たちの罪の行為や内面の罪深さが、病の直接原因ではないのです<ヨハネ9章1〜3節>。そう主張し人に罪悪感を抱かせるのはカルト宗教の手法です。もしそうなら世界中が病気で溢れてしまいます。聖書にある極稀な例外を除き病や不幸は天罰や神罰ではないのです。)

<恵みと憐れみに満ちた神>

 わたし達の内側の罪は目に見えないため、ごまかしたり隠したりできるのですが、この男性がかかっていたツァラアトという皮膚病は、外側に現れるため、隠し誤魔化すことが出来なかったのです。人前に出るのにも勇気が入りました。けれど彼はイエスの「みもとに来」(2節)たのです。 

 そして、彼はイエス様を「主」(2節)と呼び、「ひれ伏し」(2節)たのです。ユダヤ人にとってひれ伏す対象は神だけです。当時の人々にはツァアラトの治療方法がなく、神の恵みによる治癒か、来るべき救世主・メサイアだけが治せる(マタイ11:5)、そう理解されました。彼はイエスを神だと救い主だと、理解したのです。

 それもただの神ではありません。恵み深い方だと理解したのです。人々は言いました。「あなたの問題は、あんあた自身に原因がある、あなたは神に愛されていない」、そういう声に対して、彼はくじけませんでした。「確かに、わたしは困難な状況がある、重いものを背負っている。けれどこれは、神に呪われたわけでも、神に見捨てられていないのだ、神はそのような方ではない。」そう期待しました。「お心ひとつで、わたしをきよくしていただけます」(2節)とは、神様の心は私に注がれうるのだ、という彼の信仰です。

  「おこころ一つで」です。お金で、でもない。貢献で、でもない。悟りで、でもない。私達側の差し出す何かでなく、神様側のお心一つで、です。彼は神の恵みにすがったのです。

 平衡個所のマルコの福音書ではイエスは彼を「深く憐れみ」ました。他の人が眉をしかめ、顔を背け、背を向けるようなものが私たちに、私たちの内側にあったとしても、イエスは「深くあわれみ、手を伸ば」(マルコ1:40)す方です。憐れみとは、内臓がねじ切れる、という意味で、私たちの痛みを、悲しみを、苦しみを、自分のことのように感じて下さる方が、私たちの信じる神様なのです。

 (この出来事から2000年後を生きるわたし達はツァラアトにはかからないかもしれません。けれど、この病が人の罪を代表するものであったように、私たちの内側にも、罪という病があるのです。その病は、自己中心、高慢さ、妬み、欲望、恐れ、諦め、愚かさ、そのほか様々な症状によって現れ、私たちを神と人から引き離し、自分自身を、そして、人を苦しめてしまうのです。東方正教では、キリストを魂の医者、に例えました。治療にとって何より大切なのは、病識だと聞いたことがあります。私たちは自分の心と魂に向き合い、気を配っているでしょうか?)

<罪を引き受け、きよめるキリスト>

 不思議なことがあります。この後の箇所では、イエスは言葉だけで人々を癒やしている。言葉だけでも十分です。けれど、この時、イエス様は、「わたしのこころだ。」と言って、彼に手を伸ばしたのです。彼に触れたのです。皆が距離を取り、手を引っ込め、触れまいとするところに、手を指しのばし、触れて下さったのです。

 この出来事は、彼や私たちがどれだけ汚れていようが、罪深かろうが、神は決して拒まなず手を伸ばし続けて下さる、という証です。イエスは彼の表面の病だけでなく、彼の心に刻まれた傷や、悲しみ、嘆きまでをも癒やしたのです。マルコの福音書によれば、彼はそのあと、イエスさまが止めるのも聞かず人々に告げて回ったそうです。それほど嬉しかったのでしょう。

 けれど、律法(当時の宗教的決まり)によれば、イエスも汚れた存在になるはずでした(感染するかどうかは別として)。イエスは気にしません。いえ、むしろ、イエスはむしろ私たちの汚れを引き受けようとするのです。少し後の17節ではこれは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」」と説明がされています。もとのイザヤ書53章はこんな内容です。53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。 53:44 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。・・・53:5 5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。・・・ 53:6 しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。・・・53:8 彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

 結婚式には一つ一つに意味が込められていて、伝統的に男性が黒を着て、女性が純白の白を着ます。聖書の中で、花婿がキリスト、花嫁が私達・教会にたとえられますから。であるなら、本来はキリストを表す花婿が純白や黄金の色を着て、人間を表す花嫁が真っ黒か薄汚れた色を着るはずです。けれど実際は逆です。あの配色は、イエスさまが私たちの罪を引き受け、身代わりに十字架にかかってくださった。そのことで、私たちを「雪よりも白く」(詩篇51篇)きよめてて下さったことを象徴するのです。


 この癒やされた人は、やがて十字架のニュースを聞いた時、イエス様が自分たちの罪を身代わりに背負い十字架にかかったと聞いた時、誰よりもその意味を理解したのでしょうか?

 私たちの内側の罪を、宗教的にも、実際的にもきよめるのは、このイエスの十字架です。十字架により罪は赦され、十字架を見上げる時、自己中心も、妬みも、恐れも、欲望も、きよめられるのです。私たちの側の努力ではなく、イエスの十字架で、イエスの憐れみに満ちたおこころでです。東方正教の伝統では、イエスを魂の医者と理解しました。勇気を出して、私たちが自分自身をこの方に診てもらうことができますように。イエスは私たちの罪に、弱さに、醜さに、また誰かの罪により付けられた深い傷に、「深く憐れみ、手を伸ば」(マルコ1:40)してくださる方です。

 

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