9月18日のメッセージ

2022年9月18日  マタイの福音書〜神様の良い知らせ⑤

<聖書:マタイの福音書5章>

5:1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた

5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

<愛されたものの道>

 マタイの福音書から、良い知らせという意味を持つ、「福音」(ギリシャ語で、ユーアンゲリオン・エヴァンゲリオン、英語でGospel・ゴスペル)について教えられ、一般社会の理論とも、典型的な宗教とも違う、福音の素晴らしさを味わっていきたいと思います。

 

 イエス様は、3章で、洗礼を受け、4章で、荒野の誘惑にあい、ペテロやヨハネのような漁師たちを弟子とし、人々を教え、奇跡によって癒やし、5章では、山に登り、多くの人に話します。ガリラヤ湖周辺には、私たちのイメージする高山はなく、丘のほうが適切。それでも山と表現されているのは、モーセがシナイ山で律法を授かったことと関連付け、イエス様の新しい律法、旧約聖書を、更に深め、広げ、前進させた、教えが示されます。

 5章だけでも、みなさんがご存知の箇所も出てくるでしょう。『目には目で、歯には歯で。』と言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(39節)『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』(44節)難しいなぁ・・そう思うでしょう。

 

 誤解のないように言いますが、イエス様は、これらの教えを守ったからご褒美に、神に救われる(愛される・罪赦される)とは、言っていません。この部分は、救いの道ではありません。救われた者の道です。神に愛され、神の子とされた者にふさわしい道、として示したのです。

 今日は敬老の日ですね。、これは信仰の先輩たちが志し歩んできた道です。私たち全ては、歳を重ねていますが、その歩みが後の人にとって少しでも励ましとなるように、この道を歩んでいきたいと思います。

<自分を諦めた人々への福音>

 山上の説教は、たしかに高い目標に見えます。特別な人には出来るかも知れないけれど、どうせ私なんかにこんな歩みは出来ない、と諦めないでください。もう愛されているし、天国は約束されているのだから、ずっとこのまま、ありのまま、今のまま・・・と投げ出さないでください。

 

 イエス様は、この教えを、エルサレムの神殿で、宗教家やエリート、地位や名誉のある人たちに語ったのではないのです。イエス様はこれを、「異邦人のガリラヤ」(4:15)とさえ言われた片田舎の丘で、ガリラヤの漁師たちや、名もなき群衆に語ったのです。山上の説教は、幸いなるかな、で始まりますが、そこに挙げられる、心の貧しい者、悲しむ者、貧しい者(ルカ6:20)、飢えている者、泣いている者(ルカ6:21)、に話しかけたのです。

 重税で苦しめられ、生活は貧しく不安だらけ、、宗教的基準は満たせず、「地の民」(天の民、神の民の反

対)という蔑称で呼ばれ、自尊心も希望も持てない、自分はだめだ、神にも愛されない、そう考えられていた大勢の人々。そんな自分を諦めていた人々に、イエス様は語りかけたのです。

 そして、彼らの自己理解を変えます。自分で自分を諦めていた人達に言うのです。「あなたがたは地の塩です。・・世界の光です。」(13,14節)あなたがたは地の民などではないと、つまらない存在ではないと、地の塩だと、世の光だと。神の民、天の民であり、本当に生き方があるのだと。

 そして、神から遠く。呪われたとされていた人々を、「あなたがたは天の父が完全なように、完全でありなさい。」(5:48)と励ますのです。

 この言葉は、見下されていた人達にとって、誰からも期待されなかった人にとって、うつ向いていた心と顔を、ハッと天に向けさせるような、慰めと希望の響きをもってその心に届いたでしょう。

 あなたが自分をどう見るか、人があなたをどう言うか、それはとても大切です。けれど私たちは、神が自分をどう見ているかを、どう言っているかを、まず聞きたいのです。。

 私たちは、そのままで、ありのままえ、(より具体的には、罪深いまま、汚れたまま、愚かなまま、醜いまま、)神の十字架により愛され、赦され、受け入れられました。3章の洗礼の箇所ので、イエス様が何の働き(Doing)も何の功績(Having)も無い時に、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」(マタイ3:17、マルコ1:11)と言われたように、神はどんな時も、私たちの存在そのもの(Being)を喜び、肯定してくださる。それは素晴らしい知らせ、福音です。

 

 けれど、神は、私たちの愚かな考えや、罪深い言動のままでいてほしいわけではない。それが天の父の親心です。私たちを信じ、期待し、私たちに変えられてほしいと願っている、私たちが「どうせ」と諦めても、イエス様は私たちを諦めていない、これも福音なのです。

 自分の弱さや愚かさは十分に分かっています。キリストの信頼と十字架に応えたい。神の子としての歩みに、キリストに似た心と姿に変えられていきたい(専門用語で聖化)のです。

<恵みによって>

 この山上の説教を、決心や努力で成し遂げようとしないでください。「私たちはみな・・・主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」第2コリント3章18節

とあるように、神の働き、恵みによるのです。

 山上の説教は、恵みで始まり、八福の教えと言われます。集まっていた群衆に代表される、心の貧しい者、悲しむ者、貧しい者(ルカ6:20)、飢えている者、泣いている者(ルカ6:21)、を幸いと呼ぶのです。なぜなら、彼らを放っておかなあった方がいるからです。天の父が、彼らに天の御国を約束し、慰め、地を相続させ(当時の祝福)、満ちたらせ、憐れみ、ご自身を表し、神の子と呼ぶ、からです。

 ヨハネス・エレミアスという聖書学者は、山上の説教には、恵みが先行している、と説き、このすべての箇所の前に、「あなたは救われた』と付けなさい、と勧めました。あなたは無限の愛で愛された。キリストの十字架の血により罪赦され、一方的に神の子とされたのです。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5章8節) だから、私たちは神の愛や救いを獲得するためではなく、愛と救いをすでに、最初に、受けたから、その先行する恵みに応答していくのです。

 愛されてない人が(愛されたことを忘れた人が)、愛することは出来ません。受けたことのない人が(受けたことを忘れた人が)与えることは出来ません。赦されたことのない人が(赦されたことを忘れた人が)赦すことは出来ません。山上の説教は、イエスが歩んでくださった道であり、イエスがわたしに、あなたにしてくださったことです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13章34節)

<今週の黙想>イエスがしてくださったことを思い返しつつ、5章を読み、毎日をはじめてください。

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