9月4日のメッセージ

2022年9月4日  マタイの福音書〜神様の良い知らせ③

 

<聖書:マタイの福音書3章>

3:13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。3:14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」3:15 ところがイエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

 

<福音〜洗礼を受けたイエス様〜>

 マタイの福音書から、良い知らせという意味を持つ、「福音」(ギリシャ語で、ユーアンゲリオン・エヴァンゲリオン、英語でGospel・ゴスペル)について教えられ、一般社会の理論とも、典型的な宗教とも違う、福音の素晴らしさを味わっていきたいと思います。 クリスマスに幼子として生まれたイエス様が、人々の前に現れて最初にされた事、それは洗礼を受けることでした。

 エルサレムから30キロ以上離れたヨルダン川とその周辺の荒野で、洗礼者ヨハネが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(2節)と人々に洗礼を授けていました。

 もうすぐ救い主がやってくる、救い主と出会うために、悔い改め(自分に罪があることを認め、神に向け方向転換すること)の表現として、洗礼を受けなさいと勧めます。人々は「自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。」(6節)のです。ヨハネのバプテスマに人を救う効果があるのではなく、自分は罪人です、神様の介入が必要です、という表明でした。イエスの十字架と復活以降は、加えて、イエスをキリストと信じる信仰を表明する儀式として今日に続いています。

 ヨルダン川には沢山の人が集まりました。自分から列に並び受ける人、受けようか迷う人、なんとなく流されて受ける人、それを遠巻きに見る人、あざ笑う人、嫉妬しヨハネを睨む指導者、色々な人がいたでしょう。私たちならこの場面で、どこにいるでしょうか?並ぶ人?迷う人?あさける人?

 私たちのイエス様は洗礼を受ける罪人の列に並ばれました。イエスは神が人となった方、私達の救い主す。罪もない、悔い改めの必要などない。けれどイエスは、正しく生きられない人、貧しい人、身体を売る人、などが並ぶ罪人の列に並ばれました。なぜでしょうか?


<福音〜罪人の列に、私たちの列に並ぶ方〜>

 1つ目は、私たちとともにあるためです。イエス様は罪人の列に並ばれました。罪人と同じバプテスマを受けられました。そして、罪人と言われる人達とたくさんの時間を過ごしました。そして罪人の受ける罰である、十字架で死なれました。それはまさに、神が私たちのところへ来てくださった、私たちと同じようになられた、ということです。

 普通宗教は、いかにして神のところに到達するかを説きます。(諸宗教を富士登山の様々なルートに例えた、なんとも日本的な例えを聞いたこともあります。登山道は違えど、ゴールは結局同じと言うのです。)

 けれど、聖書の神は、キリストは、私たちのところに来られる方です。宗教は神とどのように出会うかを説きますが、福音は、すでに神が私たちを求めて来てくださったと知らせます。

 ある著名な神学者の妻が女性特有の病気に悩まされていました。彼は、妻のため古い友人の名医に会いに行くことにしました。その名医は、病院は歌舞伎町のような場所に医院を開いていた。患者さんは、水商売の女性たちや性病に悩む男性たちばかり。ガラス張りで外から見える待合室に座っていると、通りからのじろじろとした人々の視線が感じられ、いても立ってもいられず。順番を先にしてくれと交渉するも断られる。顔を隠うように座り、「私はこんな場所にいる人間じゃない」、「知人に見られたらどうしよう、私と

彼らは何の関係もない」、と嘆いていたその時・・・その神学者の心に、今日のイエス様の洗礼の箇所が、罪人の列に並ぶイエス様の姿が浮かんだそうです。

 イエスは、収税人、売春婦、痛みや傷を抱えた人、心も魂も乾いた人の列に並ばれた。彼らと私は関係ないとは言わなかったのです。 イエスは、あなたとは関係がない、とは決して言いません。 イエスの洗礼は、私は彼らと共にいる、私はあなたと共にいる、というメッセージです。

賛美歌21の563番「ここにわたしはいます」

ここに私はいます ホームレスの眠る街 ここに私はいます 凍える子の涙にも あなたは? ここに私はいます 仕事さがす列の中 共に私はいます 変革よぶ人々と あなたは? 共に食卓かこみ パンを分かつ群れの中 共に私はいます みことばに生きる人と あなたは?

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。 (ピリピ人への手紙2:6〜8)~⃣

 私たちが、自分の罪や情けなさに失望するとき、私達の後ろに並んでくださるイエス様の顔を見たいのです。 私たちが誰かを裁き責める時、その人の後ろに並ばれるイエス様の姿を思いたいのです。

<福音〜天からの声〜>

 イエス様が洗礼を受けた2つ目の意味は、私たちへの招きです。

 イエス様は「すべての正しいことを実行するのはわたしたちにふさわしいのです。」と言われました。罪を告白して、洗礼を受けると、聖霊が注がれました(神が共にいてくださることを表します。)そして、点からの声が響きます、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(17節)(最古の福音書であるマルコの福音書では、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」(マルコ1:11)となっています。)洗礼を受けたものは、神からこのように語りかけられる。神の子とされるのです。

 この語りかけこそが福音です。これはイエス様の公生涯の最初の場面です。イエスが一言も語る前に、一人も癒す前に、一つの奇跡をする前に、一人の弟子も得る前に、なんのDoing(行動)もHaving(功績)もないのに語られました。神様はイエス様の存在そのもの(Being)を喜ばれたのです。これが私たちの見本であるなら、私たちは神の子も、同じように、何が出来るか、何を成し遂げたかではなく、その存在そのものを神に喜ばれている。

 善いことをすること、多くを知ること、成熟すること、それらは大切なことですが、決して神に愛されるための手段ではなく、神に愛された私たちの応答、あくまで結果なのです。(どうかこの順序だけは間違えないで下さい。)

 何をしたかDoingや何を得たかHavingはとても大切ですが、それはやがて出来なくなるときや手放す時や状況が必ず来るのです。けれど神様は私たちの存在そのものBeingを喜んでくださり、「わたしの心に適う者」(新共同訳)と今も、これからも呼んでくださる。そのことに安心して、今この時、私たちは、神の愛に応えていくのです。

 喜ぶとか、心にかなう、と訳される(ギリシャ語、ユードケオーは、「エウ」(良い)と「ドケオー」(見える)が合わさった言葉です。人の目には、乏しく、愚かで、魅力的でなくても、神の目には宝のように写っているのです。この原語の意味を思うときに、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)を思い出します。

 有名なこの聖書箇所はこう続きます。「だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」その愛ゆえに他の何を犠牲にしても構わない、というのです。

 そして、神は私たちを尊び愛するあまり、イエスを私たちのかわりに、キリストを私たちのいのちの代わりにされたのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信

じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

 私は昔、そう聞いて不遜にも「勝手に愛して、勝手に死んで・・・、変な神様だ」と思いました。けれどそれこそが福音なのです。福音とは、私たちが神に何かをするかではなく、神がすでに私たちに何をしてくださったかなのです。キリストは、私たちの隣に来て、あなたは愛されたと言い、私たちを押しのけ十字架にかかられました。私たちの行動は、このキリストへの、福音への応答なのです。

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