7月17日のメッセージ

IMG_20220717_0859282022年7月17日  聖者が嘆きの歌を歌う時

 

<ファミリータイム:第一列王記>

19:11 主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。19:12 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。19:13 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」

 

<聖書>

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 第二コリント4:18

 

<聖者が嘆く時>

 先日「When saints sing the blues」(聖者が、嘆きの歌を歌う時)という本を読みました。モーセ、エリヤ、エレミヤ、などの偉大な、大活躍をした人物たちが、「私には重すぎます。」(民数記11:14)と挫け、「あなたは私をつかみ、私を思いのままにした。」(エレミヤ20:7)と神に怒り、「どうか私を殺してください。」(民数記11:15)「もう十分です。私のいのちを取ってください。」(第一列王記19:4)と失望の叫びをあげていたのです。

 私達もまた、嘆きの歌を歌います。経済、健康、政治、人間関係など、私たちが幸せを見出し、期待するものは、状況の変化や、誰かの手によって、様々な状況によって、打ち砕かれ、崩れ去り、吹き飛ばされるからです。(私の場合は、自分の失敗や愚かさの結果苦しむことが多いのですが・・・)誠実に歩んでも、神に従っていても、苦しむこともあるのです。その時のほうが落ち込みは激しいかもしれません。

 

<聖者の落胆>

 エリヤは偶像の神々を信じていた預言者たち450人に対して、たった一人で立ち向かい、大勝利を収めました。しかし、勝利がきっかけで、エリヤは敵であるイゼベル女王から恨みを買い、命を狙われ、逃亡生活を余儀なくされます。国の状況は一向に改善しません。いったいあの大勝利は、あの喜びは何だったのか。自分の捧げた時間も、努力も、苦労も、全ては無駄だったのか・・・そのような空しさに捕われてしまったのです。喜びや期待が大きかった分、たくさんの苦労や努力をした分、落胆も激しく、自分の命が絶えることを願って神様に言うのです。「もう十分です。わたしの命をとってください。」(第一列王記19:4)

 エリヤは落胆の中で、ともに歩む人から離れ(19:4)、自分の内側の洞穴の中に閉じこもります(19:9)。視野が狭くなり、状況を悲観し、孤独を感じます(19:10)。神にも、人にも、心を閉ざし、自己憐憫の中で、不満や敵意を周囲に向け、信仰は、神への信頼は失われていくのです。

 エ

<聖者の必要①神様を探すべき場所を知る>

 失望の中で自分の死を願ったエリヤに対して、神様は食べ物を差し出します。「生きよ」(エゼキエル16:6)と言われるのです。そして、ホレブ山(シナイ山)に招きます。山とは神との出会いの場所です。40日40夜の行程の40という数字は、神の取り扱いを意味します。

 失望しても、挫けても、投げ出しても、神様は、弱さを責めたり、見捨てたり、見限ったりは、決してなさらず、むしろ関わってくださったのです。(エリヤですら、失望のトンネルを抜けるのに、かなりの時間がかかった、それは時間をかけても良いのだよ、わたしは関わるよ、という、神様からの私たちへの慰めです。)

 

 そこでエリヤが経験したのは、神様と出会い直す体験でした。神様は、声をかけます。「エリヤよ、ここで何をしているのか」(19:9)これはアダムやエヴァ、カインなど自分の歩みを見失った人達へと同じ問いかけです。エリヤは、自分の窮状を訴え、感情を神様に吐き出します。

 すると神様は、「外に出て、山の上で主の前に立て」(19:11)とおっしゃる。

 すると山を裂き、岩を砕くような激しい風、地震、火などの現象が現れます。さまざまな奇跡を体験してきた

エリヤにとっては、神様の存在を象徴するような現象であり。エリヤだけでなく、私達も、そういった華々しい、力強い出来事の中に、神様を探すでしょう。けれど、不思議な言葉が続きます。それらのど「の中にも主はおられなかった。」(19:12)のです。

 

 神はここにおられる、これが神の臨在の証拠だ、そう思っていたところに神はおられない、その驚きの中で、エリヤは、かすかな細い声、静かにささやく声を聞いたのです。エリヤが期待したであろう、そういった激しい出来事の中に、素晴らしい勝利や成功の経験の中だけに、神様がおられたわけではないのです。むしろ、その静かな細い声が聞こえるほどに、悲しみに沈み、すべてを投げ出していた自分のすぐ近くに、神はすでに共におられたことに、エリヤは気付いたのです。自分は裏切られたのでも、見捨てられたのでもなかった。自分が間違ったところに、限られたところだけに、神を探そうとしていたのだと。

 

 私たちはどうしても、喜びや成功や達成感の中にだけ神を探してしまう。それがないと、神はいないとか、神は頼りにならない、と決めつけてしまう。けれど、そこだけでなくむしろ、悲しみや失敗や挫折の中でこそ、神様は静かにささやく声であなたに語りかけ、あなたと出会ってくださるのです。

 そして、神様は再び問います。「ここで何をしているのか?」エリヤは今度こそ真っ直ぐに心を注ぎだします。神を見失っていた9節と神に気付いた14節、それでもエリヤの口から出るのは同じ言葉です。でも、それでいいのです。言葉の文言以上に大切なのは、心の距離なのですから。これは慰めなのですが、嘆きや怒り、弱音、そういった立派な社会人として、神を信じる信仰者として、ふさわしくない(?)と思われる心や、言葉、姿も、神様に対してなら、注ぎだして良いのです。

 

 エリヤは再び、神様を見い出しました。私達はどこに、神様を探していますか?隣におられ、語りかけてくださる、神様のか細い、けれどいのちと力を持った声を、聞き逃してはいませんか?それほど近くにいる神様に、親しく心を注ぎだしていますか?

 

<聖者の必要②神様の恵みに気づき直す>

 エリヤは自分の働きは、無駄であった。自分は一人だ。そう悲観的に訴えました(19:10&14)が、神様は、あなたの役割を担うものがいると、そして、神を愛する7千人がいると、応えます。この箇所を通して、神様は、エリヤは決して一人ではないと、エリヤの働きは無駄ではないのだと、励ましてくださっっているのです。

 

 仕事、健康、人間関係、経済など、目に見えるものが一時的に損なわれた時、私達もまた、自分のしてきたことは無駄であった、自分は一人だ、そう嘆きたくなることはないでしょうか?私は落ち込んでいた時に、教会に支えられました。「あなたの苦しみは、わたしの苦しみです。」といってくれる信仰の友人が備えられました。その頃にあった洗礼式を通して、今は見えなくても、後に永遠の実を結ぶことがあるのだと気付かされました。

 

 エリヤも私達も、自分一人では限界がある。けれど、神は他の人を起こしてくださるし、神自身が働いてくださる。やがて、北イスラエル王国も、南ユダ王国も、外国の手により滅亡します。けれど、国は滅びますが、神を信じ、救いを得た人々は永遠に残りますし、南ユダでは信仰が細く長く引き継がれ、北イスラエル(サマリヤ)には、やがてイエス様や使徒たちが関わってくださるのです。神様が関わってくださるから、あなたの誠実は決して、無駄にはならないのです。

 

 私達には、私達の大切な人には、教会には、様々な問題が起こり、落ち込みを経験します。そんな時、目に見える状況に流される前に、ささやき声が聞こえるほどに神が近くにおられることを、神が永遠に続く実を結んでくださることを、どうか忘れないで下さい。

 そして、「あなたはここで何をしているのか?」と問われたエリヤが再び、自分の歩みに戻ったように、私達も神に励まされ、神とともに、自分の歩みを続けたいと願います。

 

「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:8)のですから。

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