6月12日のメッセージ

おざく台教会2022年6月12日「聖霊きたれり〜ペテロ〜」

<ファミリータイム>使徒の働き

2:14そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。・・・2:38「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

<聖書>

「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。 」エペソ5章18節

<内側を満たすものに、導かれる私達>

 教会では「ねばらない」とか「であるべき」というのは言わないようにしています・・・けれど、唯一そのような表現を使うとしたらそれは、私達は「御霊に満たされていなければならない」、「御霊に満たされ導かれて歩むべき」、ということです。

 満たされるを意味する原語(プレイロオー)は、それで一杯になる、という意味ですが、英国の説教者ロイドジョンズはこう説明しています「人の思いを全く支配してしまうことが、満たすと言われる。・・満たされるとは影響の下にある、ということである。・・影響下にあるということは、私達の全人格―知性と感情と意志―が、なにかの影響または力の支配下にあるという意味である。」

 今日の箇所が現代語訳では「御霊に満たされ、支配していただきなさい。」となっているように、私達は内側を満たすものに、影響され、支配され、導かれるのです。

 このことは今日の聖書の箇所が理解の助けになります。「御霊に満たされなさい」、と対比されて「酒に酔ってはいけません」、とあります。これはもちろん飲酒自体を禁じるものではありません。酒に支配される、影響下に陥り、導かれるなら、「放蕩」(現代語訳では「多くの悪」)と表現されるように、私達は品性や理性を失い、大きな過ちへと導かれることを表しています。(加えて、エペソ(トルコの大都市)地方では、ぶどうの栽培が盛んで、酒に関わる神が祀られていました。酒に浸ることは、不品行で退廃的な行為への入口となり、その人の品性や信仰生活を損なうことになったのです。)

 今日でもお酒、ギャンブル、薬物、不適切な異性交友、その他様々な依存で身を持ち崩す、という状況はありますが、私達を満たし支配するのは、それらだけではありません。聖書には、悪意や、ねたみや、恐れ、欲望、のろい、怒り、高慢、そういったものに内側が満たされ、自分も人も損なっていく人間の姿がたくさん出てきます(ローマ1:29、3:14)。

ペテロは恐れに満たされ、イエスのそばから逃げ出し、イエスを知らないと三度も拒みました。

ペテロは欲望に満たされ、十字架に向かうイエスを否定し、「下がれサタン」とイエスに叱られました。

ペテロはねたみや虚栄心に満たされ、周囲との比較に生き、愚かな言動を繰り返しました。

そして、復活のイエスに出会い、ペンテコステで聖霊を受けた後も、人目を気にし恐れに満たされ、異邦人との交わりを避け、パウロに注意されています。

 このペテロの姿は、不安、欲望、怒り、恐れ、ねたみ、高慢さ、そういったものに満たされ、支配され、神の子としての道を誤る私達自身の姿でもあります。信仰を持つ、聖霊が与えられる、それはかけがえのない素晴らしいことです。けれど、それで終わりではないのです。私達が何に満たされ、何に影響され、何に導かれるかが大切なのです。

<満たされるとは、満ち満ちた豊かな関係>

 では聖霊に満たされ、導かれるにはどうしたらいいのでしょうか?ロイドジョンズは私達の誤解を解くところから始めます。

「聖霊は人格を持っておられる・・・聖霊は単なる影響力などではない。・・・物質でもないし、液体でもない。また、電力のような力でもない。・・・影響は人格、聖霊ご自身の人格の影響である。」

 そして、夫婦や恋人など人間関係と、その関係が私達に与える影響を例に挙げ、「あなたが、関心のある事柄や人のことで思いがいっぱいになるように、聖霊で(聖霊なる神様との人格的関係で)いっぱいになりなさい」というのです。

 私達は夫婦、親子、恋人、友人など様々な関係から影響され、励まされ、生かされ、教えられ、変えられます。御霊に満たされるとは、恍惚状態になることや超越的な力にあふれるなど特別な状態になることと誤解されがちですが、なにより人格(神格?)ある神と深く繋がり・交わることです。その関係を豊かに持つことです。

 イエス様は私達と同じように、人間になられました。恐れや、不安、誘惑もあったでしょう。けれど私達のようにそれらに満たされ、導かれるることはなかったのです。むしろ「 聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、」(ルカ4:1)とあるように、イエス様自身が、聖霊に満ち、御霊に導かれていた、神様との関係に生かされていたのです。

「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」(ロ―マ15:13)とあるように、神との繋がりの中でどんな時も、望みと喜びと平安に溢れました。

「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5:17~18)とあるように、神様との関係が生み出すもので、満ちていたのです。

そして、同じ聖霊がすでにキリストを信じる私達の内側に住み、私達は神との関係を持っているのです。

 

<関係を喜び楽しむ>

 ですが、人間関係があること、その関係が豊かな喜びをもたらすこととが別なように、聖霊が内に住んでくださることと、聖霊に満たされることは別のことなのです。

神の聖霊を悲しませてはいけません。」(エペソ4:30)とあるように、別のなにかに心奪われ、せっかくの関係をおろそかにするのでなく、いつも祈り心を向けてください。

「御霊を消してはいけません。」(第一テサロニケ5:19)とあるように、神様が聖書の言葉を通して語りかけたり、大切な行動へ促してくれる時、それを無視し拒むのでなく、よく聞き、従ってください。

 

 ロイドジョンズの例にならうなら、素晴らしい伴侶を持ちつつも、仕事やスマホや趣味や別の異性にばかり目を向けていたら、それは愚かなことです。知恵と力があり、ときに耳が痛くても愛をもって真実を話してくれ、共に取り組んでくれる伴侶に耳と心を閉ざし家庭内別居をするのは、大きな損失です。神学者アウグスティヌスは言いました。「神を愛せよ。その後に汝の欲することをなせ。」愉しみにも、誘惑にも、弱さにも、神を愛しつつ、神とともに向き合うのです。大切な順序をどうか間違えないでください。

 アウグスティヌスはこうも言いいました。「私達の問題は悪や罪への欲求が強すぎることではなく、聖なる方への欲求が弱すぎることだ。」キリストが十字架にかかってまで取り戻してくださった神との絆を、私達も大切にしたいのです。ですから、この愛する方の言葉に耳を傾けてください。そして、共に行ってください。(コロサイ3:16)

この愛する方に、何でも祈り話してください。弱さも、愚かさも、醜さも、注ぎだしていいのです。(ピリピ4:6)

この愛する方を悲しませたなら、隠さず、誤魔化さず、その無限の愛に信頼して和解すればいいのです。(1ヨハネ1:9)

御霊に満たされるとは、神を愛することであり、神との関係を味わい楽しむことです(詩篇34:8)御霊の実は、努力の実でも、悟りの実でもありません。この素晴らしい方との豊かな関係が結ぶ実なのです。

どうか忘れないでください、聖霊は信じる私達の内にすでに、そして永遠に住んでいてくださるのです。洗礼式の時に、まるで結婚式のように、神は私達に永遠の愛を誓ってくださったのです。

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