5月29日のメッセージ
おざく台教会2022年5月29日「聖霊きたれり①〜天からの慰め主〜」
<聖書>
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイの福音書28章20節
「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。」ヨハネの福音書14:16~17
<ペンテコステのお祝い>
来週6月5日はペンテコステ(五旬節)と呼ばれるお祝いです。クリスマス、イースターと並ぶキリスト教の三大祭の一つで、クリスマスはキリストが生まれた日、イースターはキリストが復活された日、そして、ペンテコステはキリストが(聖霊なる神様として)私たちの内側に永遠に住んでくださった日です。
ですからペンテコステは、聖霊降誕祭、聖霊授与祭とも呼ばれます。もともとは、「過ぎ越し祭り」から50日後の「五旬節」・「初穂の祭り」であり、収穫の始まりやシナイ山での十戒の授与を記念します。そのような意味をもったお祭りの日に聖霊が信じる者たちに下ったのですから、象徴的ですね。)
イースターで復活されたイエス様はマタイの福音書の最後で「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と約束してくださった。そう言いながら天に昇ってしまう(キリストの昇天)。けれどこの約束はペンテコステの日に実現したのです。
聖霊とは、神様の霊です。(三位一体の神様の第三位格、聖霊なる神様です。同時にキリストの御霊とも呼ばれます。聖霊なる神様は、旧約聖書でもごく限られた一部の人に、限られた時間だけ訪れ、その人は特別な働きをしました。けれどもヨエル書にはこのような約束があります。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」ヨエル書2章28〜29節
このペンテコステの日以降、聖霊なる神様は、特別な人ではなくすべての人の内に、一時滞在ではなく永遠に住み、その人を導き、造り変えてくださる。ですからこのペンテコステの日は「教会の誕生日」と言われます。教会とは建物でなく、宗教法人でもなく、牧師や信仰歴の長い人でもなく、私たち一人一人を指します。私たちの内に神が住み(第一コリント6:19)、私たちが教会になった日です。
聖書の神は、三位一体の神です。父なる神、子なる神キリスト、聖霊なる神です。単純な分け方は良くないのですが・・・
旧約聖書の時代、主に父なる神が、天から語りかけ、時に火の柱、雲の柱で人々を導いてくれた。
新約聖書の福音書の時代、主に子なる神キリストが、身体をともなって人に関わってくださった。
そして、その後は、聖霊なる神が、信じる私達の内側に住み、人と関わってくださるようになった。
どんどんと神と人との距離が近づき、ついには内に住んでくださった、永遠に共にいてくださり、助けてくださる。それを記念するのがペンテコステの日なのです。
<聖霊なる神様は、私達の助け主・慰め主>
みなさんは、言うかもしれません。「いえいえ自分の歩みは失敗や罪、弱さや落胆に満ちています。もしかしたら私の内側には聖霊なる神様が住んでくださっていないのではないか?」と・・・
けれどイエス様は私たちの弱さも、愚かさもちゃんとご存じで十字架の前夜にあらかじめ言いました。
「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。」ヨハネの福音書14:16~17
イエス様は最後の晩餐の席で、「助け主」と6度も繰り返します。「助け主」はギリシャ語でパラクレートス、そして、この動詞形のパラカレオーは、「慰め」を意味するため「慰め主」とも訳されます。
ではイエス様の約束した助け・慰め、とはどんなものでしょうか?このパラクレートスは、傍らで・隣でを意味するパラと、呼ぶ・招く・促すを意味するカレオー、からできた言葉です。
聖霊なる神様は、いつも傍らに寄り添う方です。私達の愚かさや罪深さによって見捨て離れることはないのです(ヘブル13:5)。
そして傍らにいるだけでなく、「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)と語られたように、私達をいのちの道へと呼び、招いてくださる。
私達が様々な考えや言葉に振り回され道に迷う時、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)と道を示してくださる。
私達が落胆し、失望の中で自分を諦めたくなる時、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と、本当は自分が何者なのか思い起こさせてくださる。
私達が恐れ閉じこもる時、「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア記1:9)と、平安とともに押し出してくださる。
そして、ただ神の言葉が私達の耳を通り過ぎるのでなく、(専門用語で「聖霊の内的照明」と言うのですが)、神の言葉を心に、魂に、響かせ、信仰を、勇気を、希望を、愛を、平安を、悔い改めを、私達の内側に生み出してくださるのです。(第一コリント12:3)
<私達も慰め手に、助け手に>
ですから、弱さがあっても、欠けがあっても、傷があっても、罪があっても・・・自分や人に失望しなくて良いのです。それらを聖霊なる神様と一緒にどう取り扱い、癒やされ、変えられていったかが大切なのです。「1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。1:6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。」(コリント教会への手紙第二)
慰められた者が、人を慰められるとある。私達は安易な言葉で人を慰めるのではありません。私達が天からの慰め主により、生かされ、癒やされ、変えられ、私達自身が慰められている姿こそが、そこから絞り出される言葉こそが、天よりの慰めを指し示し、他の人にとっての本当の助けと慰めとなるのです。
パラクレートスを語源を参考に見ましたが、より大切なのは当時用いられた意味です。これは裁判用語であり「弁護人」を意味しました。私達のこれからの生涯において、聖霊により頼めないときには、妥協や過ちや罪があるかもしれません。けれどこの聖霊は神の前で、私達の傍らに立ち「この者は、キリストの血により罪を洗われた、神の民、神の子です。」と叫んでくださるのです。これも大きな慰めです。
<聖霊の続唱>
聖霊来てください。あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください。
貧しい人の父、心の光、証の力を注ぐ方、やさしい心の友、さわやかな憩い、揺るぐことのない拠り所。
苦しむ時の励まし、暑さの安らい、憂いの時の慰め、恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光よ。
あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、だれも清く生きてはゆけない。
汚れたものを清め、すさみを潤し、受けた痛手を癒す方。硬い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。
あなたはわたしの支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、終わりなく喜ぶことができますように。
アーメン。
