3月13日のメッセージ

2022年3月13日「こころの泉を見張る⑦」

 

<ファミリータイム> 第二サムエル記24章

ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。そこで、ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。」 Ⅱサムエル記24章10節

 

<聖書>ガラテヤ6:14

私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。

 

<得ることのめぐみ、失うことのめぐみ>

今日はダビデ王の晩年の失敗のお話です。人は生まれてから多くを得ていき、やがては終わりに向けてそれらを手放していく。そのどちらもが神のめぐみであるというという話を聞いたことがあります。

 

生まれた時は、食べるのも、飲むのも、着替えも、排せつも、入浴も、移動も、みな他の人の手によってしてもらいます。出来るのは泣き叫ぶことだけです。次第にいろいろなことが自分で出来るようになり、力も、知恵も、物も、人間関係も、地位も、評判も、手に入れていきます。それらは自信につながり、自分を肯定する土台にもなります。それは間違いなく神様のめぐみです。

 

けれど、やがてそれらを少しずつ、まるで力ない赤ん坊のころに戻るかのように、手放していかなくてはならない。すると不安や虚しさ、恐れが襲ってきて、一度自分というものが揺らぐ体験をします。けれど、それらを喪失していくことで、人生を閉じる前に、もう一度神自身を土台とし、心から神に頼ることを学び、神様に愛され生かされてきたことに感謝し、神様の視点をもって自分の生涯を捉えなおす機会となる、別のかたちでの神のめぐみと言えます。(ポール・トゥルニエの「老いの意味」「人生の四季」などは、是非読んでみてください。)

 

老いだけでなく、ヨブが苦しみの中で「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ記1章21節)、といったように、人生における苦難の時、喪失の時、それら自体は決して好ましいものではないかもしれませんが、真実に神に向き合うという意味では、恵みの時なのかもしれません。老いや喪失、苦しみは、扉のようなものであり、それらを通されるからこそ、知りうることが、たどり着きうる場所、立ち返りうる関係があるのだとも思います。

 

<晩年にこそ本質的な罪と再び向き合う>

ダビデはもう人生の晩年でした。自他ともに衰えを感じ、戦いからも退くように言われます。自分が手にしてきたもの、誇ってきたものが、少しずつ自分から離れていき、他の人がまぶしく見え、寂しさや、空しさ、恐れを感じていたでしょう。全ての人が一度は経験する誘惑・試練です。(Ⅰ歴代誌21章の並行箇所では、悪魔の誘惑として記されています。)

 

そんな時、ダビデは、自分が何を手にしてきたか、どれだけの力があるか、自他ともに認められるように、兵力を数えます。人口や兵力を数えることは、一般的ですし、聖書でもあります。けれど、「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(第一サムエル16章7節)のであり、問題はダビデの心に、ダビデの在り方にありました。

あまり信仰的ではない将軍ヨアブですら、「なぜイスラエルに対して罪過のあるものとなられるのですか。」(Ⅰ歴代誌21:3)と言ったように、それは、神よりも自分を誇り、神よりも兵力を頼り、神よりも功績を支えとすることでした。「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」(詩篇20篇7節)とまで歌ったダビデ王がです。

自分を誇ること、自分に満足しようとすることは、誰にでもありますし、前回の姦淫と殺人に比べれば、一見、小さな出来事に思えます。けれど、思い返していただきたいのですが、神より自分を誇ること、神より自分に頼ること、神より自分を上に置く高慢こそが、エデンの園での最初の誘惑と罪でした(創世記3:5)。

 

自分を神のように考え、自分の権力や立場を誇りとする歩みが、神に聞き従うことなき指導者と国が、どのような結果をもたらすかは世界の歴史を見れば、また今の戦争を見ればわかるでしょう。(一般に人は、お金、異性、プライド、の3つが大きな誘惑になると言われます。最初の2つは問題として見えやすいですが、一番見えにくく、最も人を狂わせ、周囲に悪影響を与えるのはこのプライドの誘惑です。)

 

そして、このダビデの姿は私たちの姿でもあるのです。私たちは王様ではありませんが、ある人は、全ての人は自分自身という国を統べ治める王だとも言いました。自分自身だけでなく、家庭や職場など、責任のある領域があります。私たちもまた、神以外を誇り、頼り、支えとするとき、自分が神のようになる時、自己中心で愚かな振る舞いによって、周囲に深刻な影響をもたらすことを、この出来事は教えてくれます。

 

<それでも神を見る>

ダビデは、民を数えた後に、やっと自分の誤りに気がつきます。加えて14節の選択により、自分の罪の結果、他の人々が苦しむのを見ます。外面的な力を失い、内面的に培ってきた品性でさえも失敗し、自分のせいで多くの命が失われたのです。

この箇所を読むと、こんな人間が許されていいのか、と思う人も多いでしょう。そのような戸惑いを乗り越えるためとして、もともとあった民の悪に神が裁きを与えるきっかけとして(24:1より)、ダビデの失敗があったのだとの理解もあります。そうも読めますし、やはりダビデの責任なのかもしれません。

 

けれど心の泉を見張るというテーマで読む時、1つのことが浮かび上がります。他の王様たちもダビデのように多種多様な失敗をしました。サウル王もソロモン王も神に帰りませんでしたが、ダビデは神に帰ったのです。愚かな選択もしましたが、最後には、自分に責めを負わせてくださいと、神様の前に出ています。

自分に失望しきった人間が、社会的にも、信仰的にも、失敗した人間が、それでも神様に心を向けているのです。ただユダのように後悔したのではない、ペテロと同じく悔い改めた(神の方へ向いた)のです。

 

そして神は、ダビデに祭壇を築くように命じます。神はダビデを見捨てず、ご自身へと招いたのです。

「エブス人アラウナの打場」(24:18)、そこは、ダビデ以降、失敗者が、罪あるものが、招かれる場所でした。この場所は息子のソロモン王が神殿を立て、罪を犯した者が神に立ち返る場所となりました。そして、ダビデから1000年後、イエス・キリストが十字架にかけられる場所です。失敗者ダビデが神に招かれた場所は、そこで行われたキリストの十字架刑のゆえに、私たちが神へと招かれる場所ともなったのです。

ダビデは自分を誇り、失敗しました。私たちはどうでしょう?「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」(ガラテヤ6:14)誇るとは原語では、首、という言葉から派生し、顔を高く上げて生きる、といった意味の言葉です。私たちは首を、顔を上げる、根拠は多くあるでしょう。しかし、罪や失敗のある私たちが、やがては全てを失った時でも、それでも、顔を高く上げられる根拠、私たちの誇る唯一のもの、それはキリストの十字架なのです。

あなたが誇るものは何か、何を根拠に顔を上げているか・・・自分の心を見張っていてください。

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