2月20日のメッセージ

2022年2月20日「こころの泉を見張る⑤」Ⅰサムエル記17章

 

<ファミリータイム>

26:9 しかしダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。」 26:10 ダビデは言った。「主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。 26:11 私が、主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。さあ、今は、あの枕もとにある槍と水差しとを取って行くことにしよう。」

 

<聖書>

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」ローマ12:19

 

<私たち自身が罪と悪に「感染しない」ように>

サムエル記を、こころの泉を見張る、というテーマで読んでいます。(箴言4:23 新改訳「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」)心の泉を見張るべき時、それは誰かからの悪意や敵意、攻撃や非難、損害を受けた時です。社会的にも必ず対応すべき案件もありますので、落ち着いて対処出来れば良いのですが、どうしても心は動揺し、失望、不安、怒りで、満たされます。切り替えたり、忘れたりも難しく、後々まで引きずってしまいます。

何より注意したいのは、自分自身が相手と同じようになってしまうことです。人の罪や醜さが、わしたちの内側にもある罪や醜さを刺激し、大きくし、引き出し、染めてしまうのです。そして、自己中心で、偽りがあり、攻撃的や批判的な、心、思考、姿に、私たち自身もなり、時に相手への報復や、別の人への攻撃に駆り立てられるのです。罪や悪の「感染力」はすさまじく、私たちを相手と同じ罪の性質に染めてしまうのです。

 

ダビデは、上司から、同僚から、家族(息子や妻)から、ダビデ本人に落ち度なくとも、様々な悪意や攻撃を受けた人でした。もちろん悲しみました、痛みました、苦しみました、しかし相手のようにはならず、相手のところまで堕ちず、神と人への誠実を貫きました。ダビデはどのように自分の心を守ったのでしょう。

 

<神様を見上げ人間性を守る>

サウル王は、自分の地位や名誉に固執するあまり、有望なダビデを妬み、反逆の汚名を着せ、策略を巡らし殺そうとします。ダビデは逃亡生活を送ることになります。24章ではダビデはサウルに復讐するチャンスがありつつも、「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」(24:6)とサウルを見逃します。ダビデは、主が、主がと、繰り返す。ダビデは、相手を見る以上に、神を見上げていました。

 

26章で、再びサウルの悪に報いるチャンスが巡ってきます。反省せず、悪を繰り返すサウルが悪い。心情的にも、政治的にも、ここでサウルを殺すのが得策です。しかし、ダビデは手を下さないのです。

ダビデはここでも、主が(神様が)、主が、と何度も言っています。判断基準は自分ではない、この問題で大切にされるべきは神様の思いだ、サウルの命も、そのタイミングさえも、握っておられるのは神様だ、と言うのです。自分は神ではない、踏み越えてはならない、その姿勢は今後のダビデの歩みのためにも重要でした。

 

罪の源とは、善悪の知識の木の実を食べること、自分が神のように判断すること、自分を神の地位に置くこと、です。(創世記3章)。サウルは、神様に聞くことを止め、自分が神様であるかのように判断していきました(13,15,22章)。結果、愛や、思慮深さや、思いやりといった人間らしさを失い、妬みや、不安や、怒りに支配されていったのです。皮肉なことに神を捨てることは、人間らしさを捨てることにつながっていくのです。

 

復讐に走ると、自分が相手に似てしまうと、先ほど話しましたが、ダビデにもその危険がありました。やがて神様がサウルの悪に報いると考えていましたが、自分の都合で、自分の方法で、自分のタイミングで神が定めた王に、手を下すことは、自分が神になるかのような行為であり、サウルと同じ姿に成り下がることでもありました。それは、ダビデの人間性に、神と人への姿勢に、今後の歩みに大きな影を落とすことになるのです。

 

私たちが気を付けるべきは、怒りや不安の中で、自分が神のようにならないこと、自分を神の位置に置かないことです。25章でナバルという人に怒りから復讐しそうになった時、一人の女性を通して神様はダビデに語ります。「むだに血を流したり、ご主人さま(ダビデ)自身で復讐されたりしたことが、あなたのつまずきとなり、ご主人さま(ダビデ)の心の妨げとなりませんように。」(25:31)私たちもこの言葉を聞き、困難の中でも神を見上げ、神様を認め、何より大切な、心の泉を、神の子としてのあり方を、人間性を守り抜きたいのです。

 

<神に任せ、キリストに従うことに集中する>

そしてダビデは、復讐は神様がなさることだと、神様にお任せしました(26:10)。(聖書には、人の悪に対して、人間を通して神の裁きが行われる場合もありますが)そして、自分は神と人への誠実を尽くすことに集中したのです。

復讐を任せるとは、自分が手を下さない代わりに、神が相手にどう報いるかに注目することではありません。相手を気にしたり、恨んだり、憎んだりする分の時間、力、心、頭を、自分に与えられた歩みに用いることです。

今日のローマの箇所は、私たちに復讐行為を禁じるだけの言葉ではなく、私たちの歩みを守るため、キリストの姿へ私たちを招くための、神様の愛ゆえの言葉です。私たちはただキリストに従うことに集中したいのです。

 

教会でよく読む「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」(第一ペテロ2:21)という箇所はこう続きます。「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(第一ペテロ2:23)イエス様の目と心は、批判する人達よりも、悲しむ人に、苦しむ人に、そして私たちを救うことに向かっていました。私たちも、キリストの背中を見つめ、神の子としての、自分の歩みに集中するのです。

 

<十字架こそが本当のいやし>

神を見上げ、復讐を任せることで、ダビデの心は守られました。しかし、心に影が差し、魂の傷が疼き、苦々しい思いで満たされる時があるのも事実です。切り替えよう、忘れよう、赦そうとしても私たちはダビデのように強くはないのです。けれど、私たちはダビデが直接は知らなかった十字架を知っています。先ほどの箇所は続きます。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」第一ペテロ2:24

キリストの十字架は、私たちもまた罪があり、そのためにキリストが死なれたことを示します。

十字架は人から批判や攻撃を受ける私たちを、神はいのちを捨てでも愛したことを示します。

自分で自分を変えるのは難しいのですが、十字架を見上げる時、自己義認や怒りや恨みが少しずつほぐされ溶け去ってゆくのを、傷や痛みは次第に和らぎ癒されていくのを、感じます。歴史の教会は、罪を病や傷と、キリストを魂の医者とも理解しました。キリストの十字架こそが、私たちの、罪も愚かさも醜さといった病も、心と魂についた深い傷も、いやすことができるのです。復讐は神に任せ、十字架を見上げて歩めますように。

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