1月16日のメッセージ

2022年1月16日
ルカによる福音書10章25~37節
「あなたも行って同じようにしなさい」

信徒説教者:斎藤義信さん

お開き頂きました聖書は有名な「善きサマリヤ人」のたとえ話です。この25節からお読み頂くと分かります様に「ある律法の専門家」がイエス様を陥れようとするために質問を仕掛けたところです。「永遠の命を受け継ぐためには何をしたらいいですか…」彼らは律法の専門家ですから当然、旧約聖書で教えているところを引用したのです。するとイエス様は「あなたの言われるところは正しいです。」それに対して律法学者は満足がいかずに切り返して「私の隣人とは誰ですか?」お尋ねになりました。ここでイエス様は「善きサマリヤ人」のお話を切り出したのです。律法学者にとっては「自分の正しいことを示そうとして」とあるようにその行為は日々行っていて否定されるはずはないと考えが、あなたはどう考えるのか?と主に糺し、陥れようと考えたのです。

今日のテーマは「あなた方も行って同じようにしなさい」と言う事です。レビ人と祭司については今日は特に触れませんが、サマリヤ人の行為から3つの事から教えられて行きたいと思います。

 

第一に33節に「ところが、一人のサマリヤ人は、その人のところに来ると、「見てかわいそうに思った」あります。先ず「見て」とあります。最初の二人もそうですが、三人ともこの傷ついた旅人を見ています。見るには見たが、そこでどう感じるか。私たちはだったらどう思うか?自分の事としてみることが時にあるでしょうか?つまり目の前に血を流し倒れている人を見てどう思うか?痛みを感じて見るでしょうか?それとも無関心を装うでしょうか。明らかにこの時、サマリヤ人はその人の深い傷を見て心に痛みを感じたのです。だから次の行動に移っていくのです。少なくとも見て見ぬふりをしたレビ人と祭司とは違う行動をとりました。

 

第二に「かわいそうに思った」とあります。共同訳聖書によると「憐れに思い」と記されています。これは皆さんも聞いたことがあるかもしれませんが、ギリシヤ語の原語から見ますとこの「かわいそうに思い」、あるいは「憐れに思い」とは「内臓、はわわた」という名詞の動詞形が使われているそうです。つまり「はらわたが引きちぎられるような痛みを感じる」と言う事だと思います。サマリヤ人にとって倒れている痛みを自分の痛みとして感じた。先の二人は倒れている旅人の痛みを自分の痛みと感じることが出来なかったのです。「私には関係ない、ややこしい問題は持ち出してこないでくれ」と言わんばかりに反対側の道を通り過ぎて行きました。私たちもそのように置き去りにしてしまっていることはないでしょうか。

 

第三に34節に「そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した」とありますが、彼は「近寄って」と言うのです。

この「近寄って」と言う事は言ってみれば自分の立場を超えると言う事ではないでしょうか。例えば、私の経験ですが、ある冬の寒い夕方の通勤ラッシュの電車の中から降りて行った男性が、突然ホームで倒れました。多分、電車内と外気温の差によるために貧血を起こしたのではないかと思います。私はその時にこのたとえ話を想定したことは考えませんでしたが、丁度会社で救急法と言う訓練を受けていましたので咄嗟に車外に飛び出し、駆け寄ってその人を仰向けにして首筋を持ち上げて気道の確保をしながら脈拍を見て声を掛けました。しばらくしてその人は気が付かれました。ほっと安堵しました。

私たちは、何時、どんな時に、どんな境遇に出くわすか、わかりません、言い方を変えれば、自分という殻、枠、自分のプライド、地位、そういう自分の言わば、安全圏から出て「近寄る」と言う事です。

そのために必要なことは勇気です。ある人にとっては犠牲かもしれません。そのことによって被るであろう危険や問題を乗り越えて近寄っていく事です。私たちは何がしかの見返りがなければそんな危険は犯したくないと思います。強いて避けたいと考えます。

しかし、このサマリヤ人は自分の利益、不利益を度外視して旅人の介抱をしたのです。彼らサマリヤ人は当時、ユダヤ人から忌み嫌われていた異邦人でありました。ユダヤ人にとってはサマリヤ人との接触はタブー視されている習慣がありました。イエス様は敢えてサマリヤの女と接触するという記事もありますが、コンタクトを持たない習慣がありました。

 

そういうたとえ話の後に律法の専門家に向かって主は36節でこの三人のうちだれが旅人の隣人になったかと訊くと迷わず37節で「憐れみ深い行いをした人です」と答えました。そして「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。これは意味が深いと思います。律法の専門家にとって隣人とは自分の隣にいる人でかわいそうに思い、近寄り、憐れみを掛けるなどと考えたうえでの隣人とは思っていなかったのではないでしょうか。ただの形式で律法の教えは形だけ整えれば良い、程度に考えていたと思います。主はそれをご存じの上、彼らに「あなたの隣人」と言われたのです。

 

私たちはいかがでしょうか?このサマリヤ人のように完全に隣人としての役割を果たすことが出来ないかもしれませんが、弱さを持っている人に言葉を掛けて安否を問うこと、その人のために祈るということもその一つの証ではないかと思います。

このサマリヤ人は介抱して宿屋まで運び、もっと費用が掛かったら帰りに払います。と言う事でした。

 

私たちはそれぞれがこのように日々、自分の隣人を覚えて「善きサマリヤ人」のようになれれば良いのですが、なかなか難しいところです。一人では力なく、難しいところがあるかもしれません。しかし、主の教会である私たち一人一人が互いに協力、助け合い、役割を分担しあって、最善を尽くすと言う事で一つの御業、一つの働きが成されて行く事もあります。互いに連携しあいながら声を掛け合いながら、このコロナ禍の中にあっても最善と思われることを考えながらに尽くして行くとことがこの新しい年にも求められているようにも思います。

最後にこのたとえ話から教えられるもう一つの素晴らしいことは、実はイエス様が私の隣人になってくださったと言う事です。神が人の子の姿を取られ、この地上の最も低い位置に降りてくださり、私たちが生涯をかけて自分で負わなければならない様々な人生の罪を一身に背負って十字架にかかって身代わりとして死んでくださり、私たちに平安が与えられ、恵みの愛を備えてくださったのであります。

この地上にあってはまだまだ私たちの知恵、力では解決できない問題や戦いはたくさんあります。しかし、主はそのことに何かの方法をもって常に介入してくださり、言葉を掛け、慰めを与え、また隣人になって解決の道を開いてくださいます。私たちはこの隣人を本当の友としながら私の隣人のために最善がなされるように今週も歩んでいきたいと思います。

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