毎日の聖書1月10日~16日

おざく台教会毎日の聖書 1月10日~

1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。また、ク

 

1月10日(月)士師記8章

27節「ギデオンはそれで、一つのエポデを作り、彼の町のオフラにそれを置いた。すると、イスラエルはみな、それを慕って、そこで淫行を行った。それはギデオンとその一族にとって、落とし穴となった。」

「エポデ」は大祭司の服であり、それ自体偶像ではありません。しかし、人々はそれを偶像に仕立て上げました。偶像とは、異教の神々のことだけでなく、尊敬する人物、団体、財産、地位、所有物、などなどあなたが神以上に頼り、価値を見出すものは何でも、偶像になります。あなたの「エポデ」は何ですか?

「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」ヨシュア記24章15節

 

1月11日(火)士師記9章

16節「今、あなたがたはまことと真心をもって行動して、アビメレクを王にしたのか。あなたがたはエルバアルとその家族とを、ねんごろに取り扱い、彼のてがらに報いたのか。」

エルバアル(ギデオン)の子アビメレクは、世論を誘導し、邪魔者を殺して自ら王になりました。指導者も私達も、まごころから神に従うことはとても難しいのであり、良い意味で自分自身の心を疑うことが必要です。今日一日、ヨタムの問いに耳を傾け続けましょう。

 

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」箴言4章23節

 

1月12日(水)士師記10章

16節「彼らが自分たちのうちから外国の神々を取り去って、主に仕えたので、主は、イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった。」

罪深く失敗続きでも、時に必死に神に従おうとしたイスラエル。神はその小さな信仰を決して見逃さず応えてくださいました。今日ひとつ、小さな信仰を働かせてみませんか?神はちゃんと見てくださっています。神は今か今かと、あなたの決断を待っていてくだっているのですから。

 

「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」ヤコブ4章8節

 

1月13日(木)士師記11章

31節「私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」

エフタは士師でありながら、神様について深く知ることはなく、異教の神々のように犠牲を好む存在として扱い、それが悲劇を招きました。

本当の神様は、祈りを聞く交換条件として、私達から何かをもらう必要はありません。一方で、神は私達を愛し、信頼し、私達を用いようとして下るのです。

愛されるために、好意を得るために、神に何かを差し出すのではありません。すでに、無限に、愛されたから、その愛に応えていくのです。

 

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」ローマ5章8節

 

1月14日(金)士師記12章

1節「エフライム人が集まって、ツァフォンへ進んだとき、彼らはエフタに言った。『なぜ、あなたは、あなたとともに行くように私たちに呼びかけずに、進んで行ってアモン人と戦ったのか。私たちはあなたの家をあなたもろとも火で焼き払う。』」

神の民同士の戦いが始まりました。エフライムの主張は人間的都合や欲望であり、神様が不在です。(キリスト教の歴史でも、地位教会の中でも、神様の名を借りた、でも神様不在の、信仰者同士の争いが、どれだけあったでしょう。)

民の堕落の背後には、いつも霊的荒廃があります。私たちの霊的状態はどうでしょう?日々の神との交わりは充実していますか?人よりも神に目を向け、自分自身を問い直す一日としてください。

 

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」ヨハネの福音書15章4~5節

 

1月15日(土)士師記13章

8節「そこで、マノアは主に願って言った。『ああ、主よ。どうぞ、あなたが遣わされたあの神の人をまた、私たちのところに来させてください。私たちが、生まれて来る子に、何をすればよいか、教えてください。』」

サムソンの母マノアは、委ねられた子を通し、神のみ心がなるよう、祈りました。国を委ねられ、知恵を求めたソロモンの祈りにも似ています。あなたには神様から何が委ねられていますか?それを正しく用い、生かすことが出来るように、神様に祈り求めてみてください。

 

「わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」第一列王記3章7~9節

 

1月16日(日)士師記14章

4節「彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。そのころはペリシテ人がイスラエルを支配していた。」

現実的にも、信仰的にも、間違い!ということも、神さまが特別な計らいをもって許されることがあります。「出来事」(ヘダバール)は「言葉」、という意味もあります。理解しがたい出来事の中にも、あなたに向けられた神のメッセージが隠されているのかもしれません。もう一度ゆっくり聞いてみてください。
「お話しください。しもべは聞いております」第一サムエル3章10節

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