2月8日のメッセージ

「キリストの福音⑧」 マルコの福音書2章23節~3章5節

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3:1 イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。 3:2 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。 3:3 イエスは手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。 3:4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。 3:5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。

 

<教会はどんな場所?>

以前、ある教会の集まりで、自分たちの問題・課題をお話ししました。するとある方が、教会で、そのようなを話してもいいんだ、弱みを見せても大丈夫なのだ、と驚いておられ、その方もご自分の抱えている悩みを正直に話してくれました。

教会、宗教、信仰とは、人を癒やし、人を生かすはずです。けれど、その方にとっては、裁き、責め、苦しめるものとなっていました。だから、教会では、元気な、信仰深い自分を装ったり、痛みや弱さを隠そうとしたり、問題を抱える自分は劣っているのだと、教会の中で、小さくなっていたそうです。今日の箇所を思い出しました。

 
3:1 イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。

 イエスは安息日に会堂に入ります。当時ユダヤ教では、安息日(土曜日)に、シナゴーグと呼ばれた会堂で、礼拝をしていました。

会堂には、「片手のなえた人がいた。」とあります。たった一言ですが、は多くのことを物語っています。当時、病や問題は、罪と結びついて理解されました。苦しんでいる人は、本人が罪深いため、神の罰を受けている、という理解がありました。

ですからこの「片手のなえた人」は、何の罪の結果だろう?と好機心の目にさらされ、罪人だ、と見下されていたのです。会堂の真ん中ではなく片隅に、前のほうではなく後ろのほうに隠れるようにしていたことは、容易に想像がつきます。それでも、自分が苦しくなる場であっても、神を求めて、安息日に会堂に来る。私が話を聞かせていただいた人と重なりました。

 

3:2 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。 

 イエスと敵対していた宗教学者は、イエスを非難しようと躍起でした。イエスが安息日に誰かをを癒やしたら、「安息日を守っていない!」と訴えようと『じっと見ていた』のです。

 安息日とは(別紙参照)、神に造られ、愛され、ていることを覚える日、私達の魂が安らぐための日でした。しかし、時代とともに、あらゆる労働が禁じられ、移動距離が制限され、様々なルールを守らるか守れないかで、人の信仰や、存在価値が判断されるようになりました。本来の意味が失われ、安息日が、苦しみの日になっていたのです。

 イエス様は、『安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。』(2章27節)と諭します。私達が、宗教や教会のために造られたのではなく、私達のために、神が宗教や教会を備えてくださったのです。逆になっていないか、大切なものを見失っていないか、見張るのは、私達の務めです。

 

<立って真ん中へ>

3:3 イエスは手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。

 おそらく、端のほうで、会堂の片隅で小さくなっていたであろう人、宗教や戒めによって、追いやられた人を会堂の、真ん中へと、人々の中心へと招きます。

その人にとっても、自分を裁き、嘲笑い、見下すような視線の中にはいきたくない。あとで、こっそり癒やしてもらいたい。しかしイエスはあえて、「じっと見ていた」宗教家や人々の、裁くような視線の中へと招くわけです。

この箇所を通して、イエス様はチャレンジしているのだと思います。私たちの内側にある裁く心へ、比較し見下す心に対して、教会は問題を抱えた人が安心して真ん中に出られる場所だ、と示しているのです。この「立って、真中に出なさい。」という箇所を読むたびに、私の人生を変えた一冊の本を思い起こします。

 

 『治りませんように』という本で、北海道にある『べてるの家』という障害当事者方々の歩みや思いを記した本です。そこでは、当事者研究、という活動があり、自分の課題や不安、向き合い方や失敗を、自由に語れるのです。問題を隠さなくていいのです。誰もが、立派でなくても、解決していなくても、問題を抱えたまま真ん中に立てる、聞いてもらえる、応援される。誰もが自分の悩みや苦労を担う主人公として、生きていく、そこに人間の価値を見出すのです。(弱さの情報公開、とか、安心して絶望できる、など語録に溢れています)

 

 べてるの家や、イエス様の周りと全く同じようにはなれませんが・・・教会が、私やみなさんが、悩みや弱さを隠さずに、安心して来られ、真ん中に立てる、誰も拒まれず、否定されない、(だってイエス様がそうだから)、教会がそのような場であってほしいと願っています。

 

3:4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。

 自分を『安息日の主』(2章28節)と呼んだ方は言うのです。安息日は、(つまり、宗教は、信仰は)、善が行われるために、いのちが救われるためにあるのです。安息日は、問題を抱えたまま、真ん中に立てる日、問題のある私達が神から安息を得るための日なのです。

 

<手を伸ばして>

3:5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。

 イエスは『怒って』いました。出来ないこと、立派でないことを、持っていないことにではありません。会堂(教会)が、神の憐れみを閉ざすことに、問題を抱えた人を片隅に追いやっていることに、怒り、嘆いたのです。

 

 そして、イエスは、「手を伸ばしなさい」、というのです。立派な何かを差し出しなさいとは言わない。あなたの問題を私のもとへ持って来なさい、と招くのです。でもそれを差し出したら、人々にも見えてしまう。なぜでしょうか? 

 

 神がこの人を受け入れておられることを見せるためでした。人の基準を越えたイエスの基準を示すためでした。そして、問題があることは、問題ではない、隠す必要はない、卑下する必要もない、それは神の愛を妨げるものではない、と示すのです。

 人の目を恐れ自分の問題を隠そうとする私達自身へも、隠さずに、安心して、私のところに来なさい、と招いているのだと思います。

 

問題があれば、神は自分を拒むと、勘違いしていませんか?私達が問題を抱えていたら、人生に苦労が多ければ、神に愛されていないのだ、と誤解していませんか?

・会社が上手くいかないから、恥ずかしくて教会の役目は出来ない、という人がいました。

・宣教師の子どもに障碍があり、証にならないからと母国に追い帰えされたと聞きました。

これは教会ではありません福音ではないのです。豊かでも神に背く信仰者はたくさんいますし、貧しくても、病気でも、問題を抱えていても、敬虔に歩む人もいます。聖書でも、信仰深い人は、苦労ばかりです。大切なのは、豊かさや問題のなさではなく、それぞれの状況の中で、生きたかなのです。

 手の萎えた人、それでも「彼は手を伸ばした。」人の目にさらされようが、イエスに対して、問題を差し出したのです。人があなたをどう見るか、あなたがあなた自身をどう見るか、はとても大切。しかし、イエスはあなたをどう見ておられるか、それこそが最も大切。

 

問題を抱えることで、小さくなったり、隅に追いやられたり、裁かれたり、それを隠したり、恥じたりして生きる必要もない。問題に向き合っている人はイエス様は放っておかない。

 

 古代、ユダヤ人は、問題を問題とは捉えませんでした。出来事(ヘブライ語で:ダバール)は、言葉という意味もあります。私達に起こる出来事を、抱える問題を、上からの言葉としても、受け止めました。その神は、意地悪で冷たい神ではなく、憐れみ深い神です。

 神の栄光(素晴らしさ)というのは、問題のない人を通してではなく、問題を否定するところにではなく、神と共にその問題と向き合う人を通して。困難の時、普通なら神を呪ったり、人にストレスをぶつけたり。でも、神に祈り、人を愛する、その時に栄光が表される

 

教会とは、痛みや悲しみや負い目のある人たちが、神と出会い、明日を生きる希望を得ていく場所のはずです。宗教とは、信仰とは、憐れみ深い神の前に、弱さも、痛みも、恐れも、安心してさらけ出していけるはずなのです。

 この教会に牧師としてきて、12年が経とうとしています。あまり、特別なことができずに申し訳なさもありますが、教会が安心していられる場であることだけは、神の憐れみを表せる場であることだけは、これからも何より大切にしていきたいと思います。

 

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