11月9日のメッセージ
2025年11月9日おざく台キリスト教会「キリストの福音④」マルコの福音書
1:14 ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
1:16 ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。 1:17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
<選ばれ、招かれた私達>
みなさんはなぜ今日教会に来ましたか?様々な理由があると思います。キリスト教では、礼拝の最初に招きの言葉があるように、私達は、神が呼ばれた、招かれたから、と考えます。では、なぜみなさんは招かれたのか?また、なぜイエス様は皆さんのために死なれたのか?『選び』(Election)とも言われますが、理由はどこにあるのでしょうか?
先日プロ野球のドラフト会議がありました。埼玉からは、3名の高校生が選ばれ、高校生の本契約だけを見れば、日本一の数です。(昨年は埼玉から巨人の1位指名も。)彼らには、理由があります。投資するだけの、選びたくなるだけの、価値があります。わたしたちはどうでしょうか?
<ガリラヤに行くキリスト>
イエスは、洗礼を受け、荒野の誘惑を受けたあと、そこから「ガリラヤに行き」、宣教の第一声として、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われました。
みなさんは、14節、15節に違和感を感じないかもしれません。しかし、当時の人は驚きました。ガリラヤに行ったからです。宗教と政治の中心エルサレムに行き、や、世界の中心のローマに行き、なら分かるのです。しかし「イエスはガリラヤに行き」福音を告げたのです。
誰かが快挙を成し遂げたとき、素晴らしいニュースがあるとき、インタビューアーは「この知らせをまず誰に伝えたいですか?」と尋ねるのが定番です。選手や受賞者は、大切な人の名を挙げるでしょう。イエスは、福音を、良い知らせを、ガリラヤに知らせに行ったのです。なぜでしょう?
エルサレムには、神殿がありました。政治の中心でした。賢い人、地位の高い人物、すぐれた能力を持った人物、血筋のいい人、宗教的な人、これからの活動に役立ちそうな人々がいました。けれど、イエスが足を向けたのは、ガリラヤだったのです。
特別な日、頑張った日の、自分への買い物にならきっと「◯オコー」や「◯島屋」に行きます。けっして、「◯◯◯」ではないでしょう。近いから?いえ、むしろ遠いのです。ガリラヤは、そこから100キロ以上離れていました。
ガリラヤには何があるでしょう?何もありません。むしろ、貧しい人、病気の人、問題を抱えた人、神の前に正しく歩めない人、テロリストの地、罪人の地、「異邦人の地ガリラヤ」とさえ言われ、見下されていました。けれど、イエスはそこへ行き、まず一番に福音を告げ、弟子たちを招くのです。12弟子たちは、全員ガリラヤなのです。この不思議さこそが、福音なのです。
<漁師に目を留めるイエス>
弟子を選ぶ際も、いくつものおかしい所があります。まず、16節。ガリラヤの会堂を通ると、ではないのです。湖のほとりを通っているのです。宗教の場ではなく、生活の場です。
そして、学問をしている人ではなく、網を打ち魚を取る2人に目を留めるのです。そして17節「彼らは漁師であった」、網を打つのだから漁師です。あえて書かれている。通常なら、目にもとめないか、通り過ぎる存在として。しかし、イエスは彼らをご覧になり、呼ぶのです。
田舎漁師のどこをご覧になり、彼らを呼ばれたのでしょう?体力くらいでしょうか?他にもイエスが招いたのは、他の漁師たちや、『罪人』と同一視され嫌われていた職業の取税人マタイ、過激派のテロリストだった熱心党員シモン。
内面も、キレやすかったり、自己顕示欲が強かったり、疑い深かったり、裏切ったりと、あまり優れていなかったようです。彼らの中に、選びの理由を見つけるのは、至難の業です。
一つ確実に言えるのは、優れたところによらない、ということ。選手を、ランク付けをして上から順に選出する(ドラフト)、スカウト活動とは違う。むしろ人が絶対に選ばない人を招く。常識を超えた招き、これを神学用語の『選び』、と言います。
ある牧師はこのように説明していました。スーパーに行けば、100円均一の大根は良いものから売れていく。重みがあり、艶がある。最後のほうには、どんどん傷があり、細く、美味しくなさそうなものが残される。けれどイエスはそういうものをご覧になり、心を止め、選ぶ方。
また面白いことに、通常は弟子が師を決めます。しかし、イエスの場合は師が弟子を決めている。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」ヨハネの福音書15章16節
今日ここにいる方は、是非知っていただきたい。私たちがイエスを選んだのでなく、イエスが私たちを選び、ご覧になり、声をかけてくださった。イエスが私達のために十字架で死んでくださった。私達の側にはなんの理由もありません。理由はすべてキリストの側にあるのです。
神様は公平な方ではありません。聖書の神は、偏愛の神、偏り愛する神と呼ばれます。持たないものを、足りないものを、弱いものを、悲しむものを、見下されたものを、正しくないものを、罪人を、重んじ、偏り愛する神です。
もちろん全ての人が招かれている。けれど、ペテロやヨハネたちをまずご覧になったように、神様は私たちをご覧になり、心や生活の汚ない部分、過去の過ち、足りないところ、歪んだ考えや思い、そういったところもご覧になったうえで、不思議と私たちを呼んでくださった。
イエス様は、色々な人を、見つめて、ご覧になる、という記述がしっかりと書かれている。見つめ続ける方。間違った動機、利己的な心、野心、隠れた過ち、同時に、神を愛する心、良いところも、わるいところも見つめ続け、手放さないでいてくださる方。
「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。」詩篇8篇5節
自分の足りなさや愚かさを見つめる者が、ほんとうの意味で神の恵みを味わい、神に頼ることができるのです。全てに優れていた使徒パウロさえ言っています。「26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわり、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義の聖めと、贖いとになられました。31 まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」コリント教会への手紙第一1章
そして、恵みに頼る人にこそ、そのような教会こそ、キリストの力に覆われるのです。「主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」コリント教会への手紙第二12章9節

