11月16日のメッセージ
2025年11月16日「キリストの福音⑤」
1:16 ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。 1:17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」 1:18 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。 1:19 また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。1:20 すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。1:21それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。 マルコの福音書
<神を愛すること、家族・隣人を愛すること>
今日の箇所は、多くの人にとって大切な聖書の言葉である一方、誤解や誤用をされないように、丁寧に扱われるべき箇所です。今日の箇所で、イエスの招きを受けたペテロたちは、漁師の跡取りでありながら、父親や雇い人を残し、イエスについていきます。残された父親の計画は狂ってしまいました。信仰が、家族に影響を与えたのです。
先週は元首相襲撃事件の、山上被告の裁判がありました。宗教が家庭にネガティブな影響を与えたのです。キリスト教は、周囲に良い影響を与えると信じていますが、少し間違えれば、カルト宗教のように悪い影響を与えてしまう、恐れはあります。神を愛することと、家族や身近な人を愛することはどう結びつくのでしょうか?
<宗教ではなく、キリストについていく>
今日はその招きの言葉に注目したいと思います。神が私達に語りかけたのは、「わたしについて来なさい。」という言葉です。
信仰とは、◯◯をしなくてはいけません、△△をしてはいけません、といった義務や禁止ではありません。□□を差し出しなさい、✕✕を買いなさい、といった要求でもありません。教会に通いなさい、指導者の言いつけを守りなさい、といった何かへの加入や、誰かへの従属でもないのです。極端な思想を持つことや、日々の行動を限定されることでもありません。
イエスの言葉に基づけば、信仰の1つの表現とは、イエスについて行くことです。
(ペテロたちの場合は特例的ですが、)それは場所的な移動ではありません。抽象的な言い方ですが、イエスのそばにいることです。
弟子たちがイエスと一緒に旅をしたように、私達も神との近しい関わりを持って生きること、とも言えます。イエスと関わり、イエスに聞き、イエスに話す。その中で、私達は、キリストの心を、キリストの眼差しを学んでいく、キリストに似ていくのです。
宗教臭くなること、思想的な偏りを持つこと、宗教的なルールに縛られること、それらとは全く別物なのです。そして、私達がキリストに似るなら、それは家族にとっても、隣人にとっても、益となることです。
(本論からズレますが、神を愛することと、家族隣人を愛することを、切り分けないでください。12弟子への招きは、特例中の特例です。あなたは、モーセでも、ペテロでもありません。わたしたちにとって、家族・隣人を愛することこそが、神を愛することです。)
キリストは私に従いなさい、とそれぞれに言われます。もちろん私達にとっては、ガリラヤを旅することではないのです。それぞれの場で、イエスに従って、イエスが歩んだように生きることです。ペテロには、人間を取る漁師にしてあげよう、と言いましたが、みなさんそれぞれには、違う言葉が入るかもしれません。教師なら、真理を教える教師に、とか、医師ならたましいを癒す医師に、とでも言うのでしょうか?「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」(第一ペテロ2:21)イエスについていくなら、それは家族・隣人を祝福するものになるのです。
<失敗しても、何度でも、>
キリストに従う難しさとは、宗教的な異様さや、現実や違う立場の人を否定するような世離れした、宗教に従う難しさであってはならないのです。むしろ自分を捨て、立場の弱い人に愛し仕え、不正や差別に立ち向かった方、私達の主キリストに従うゆえの難しさであるべきです。それは十字架に代表される苦難にもつながるからです。
では、私達はイエスに従えるでしょうか?ここでは、「すぐに」、と何度も出てきます。(なんと1章で11回)弟子たちはすぐに従った。イエス様はすぐに行動した。この言葉は、「まっすぐに」とも訳される言葉であり、イエス様がせっかちなのではなく、十字架にまっすぐに向かうキリストを表現していると言われます。
では、弟子たちはどうでしょう?実際は、ファミリータイムでもあったように、初対面で従ったわけでなく、いろいろなエピソードがあり、(ルカ5:1〜、ヨハネ1:35〜)プロセスを経て、何も考えないのではなく納得して、従いました。声掛けには、「すぐに」従いましたが、失敗の連続で、「まっすぐ」どころか、ブレブレで、曲がりくねり、最後は、裏切り逃げ出す。それなのに、「すぐに」、とある。なぜでしょう?
ここには、著者マルコの思いが込められているとされています。福音書記者マルコもまた、まっすぐに歩めなかったのです。マルコは、かつて、使徒パウロといっしょに第一回宣教旅行に助手として参加しました(使徒13章)。しかし、逆の意味で「すぐに」、離脱したのです。
「サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神のことばを宣べ始めた。彼らはヨハネ(マルコ)を助手として連れていた。・・・パウロの一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネ(マルコ)は一行から離れて、エルサレムに帰った。」(使徒の働き13:5&13)*参考:使徒15:37では「ヨハネと呼ばれるマルコ」
パウロから咎められていることからも、何かマルコの内側に落ち度があった、神の声に背を向けた、と理解されています。だからこそ、読み手である初代教会には、大切なイエスの招きには、「まっすぐに」応えてほしい、と励ましているのです。
マルコは、後にもう一度立ち上がり、パウロからも認められ、聖書の福音書記者となります。マルコのようにまっすぐについていけなくても、弟子たちのように失敗や、裏切りばかりでも、私達が、イエスに近づけなくても、イエスは私達を見捨てない、見放さないのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル13:5)
私達の失敗を承知で、何度でも呼びかけてくださるのです。「わたしに従いなさい。」と。そのことを決して諦めないでください。その呼びかけに日々答えてください。

