6月8日のメッセージ

5年6月8日 「土台の上に建てられて」 エペソ2章20~22節」  斎藤義信

「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていてキリスト・イエスご自身がその要の石です。このキリストにあって、建物全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住いとなるのです。」        【新改訳2017年版】 

 

<教会とは何か>

今日はペンテコステ(聖霊降臨祭)。使徒の働き2章には、その出来事が記されています。イエス・キリストが復活して50日目、五旬節の祭り(小麦の収穫の始まりを祝う祭り)の時に、人々は一箇所に集まりお祈りをしていました。

すると突然、炎のような別れた舌が現れ、一人一人の上にとどまった。するとその人たちは聖霊(神の霊)に満たされて諸外国の言葉でキリストについて話し始め、そこに集まった他の人々は驚いたという出来事が記されています。この出来事は、いわゆる教会の誕生とも言われ、教会はここから始まりました。

 

『教会』とは、何でしょうか?大切な一つのエピソードがあります。イエス様は十字架の前に、弟子たちに、「あなたがは、わたしをだれだと言いますか?」(マタイ16:15)と訊ねたことがあります。いろいろな答えがある中で、、シモン・ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです」(16:16)と答えます。するとイエスはペテロに向って言いました。「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(16:18)

 

教会と聞くと、十字架のついた建物が浮かびます。しかし、イエスが用いた『教会』(ギリシャ語でエクレシア)とは、『呼び出された人々』という意味の言葉です。

イエスは建物を指して『教会』と言ったのではありません。人々を指して言ったのです。(大学の校舎が大学なのでなく、生徒、教授、その有機的な関わりや機能、研究の歴史、こそが大学なのと同じように)私達一人ひとりが教会なのです。私達の関わり、交わり、機能こそが、教会なのです。

ある神学者は言いました。『日曜に教会に行く』というのは、正確ではない、と。『日曜に、礼拝堂に、教会がやってくる』のです。私達がいてこそ、神の願う交わりがあってこそ、礼拝堂が教会になるのです。

教会とは、中身の本質的な性質、機能、私たちの集まりの中で神様の働かれる空間、信仰者一人一人を介して働かれる主の御業、それこそが教会の本質です。

ここは、もともとは美容院を利用した、小さな建物です。けれど、みなさんが集い、温かな交わりがあり、主の教会となった。例えば今回、例を出して申し訳ありませんが、◯◯さんが病に倒れられた、すると、すぐに教会では祈りの祭壇(主を拝する)が築き上げられました。そして更に祈り続けています。教会は喜びや悲しみに出会う時に一人で苦しんだり喜んだりするのではなく、ともに分かち合い祈ることが出来るそういうところが教会なのです。

 

<教会とクリスチャン』>

今日、開きましたエペソ書は使徒パウロにより書かれた手紙です。教会について私たち信仰者・クリスチャンの集まり、教会とキリストを信じるに至るクリスチャンについて丁寧に語っています。「……あなたがたはかつては肉においては異邦人でいた。」(エペソ2:11)

異邦人とは、当時イエスキリストの言葉を聞いて信じ受け入れることのできたイスラエル人とそれ以外の人のことです。その異邦人について、「そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした」(2:12)と語られます。『約束の契約」とはイエス様の十字架の血を信じることによって神の子とされる約束のことです。

 

私は若い頃は、キリストに出会い、信じるまでは、正に異邦人でした。エペソ書2:1~を後で読んでいただきたいのですが、私はキリストを信じる前は自分の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、言ってみれば、自己中心な自分勝手な思い通りの生活が当たり前でした。聖書ではこれを空中(世の中)の権威を持つ支配者(サタン)に支配された状態(エペソ2:1)と言っています。もちろん一概にサタンに支配されているばっかりではなく善良な人も居れば、そのように歩むことを心掛けている人もたくさんおります。

 

しかし根本的には「心の中の望むままの欲」を聖書では「自分の背きと罪」(エペソ2:1)と言っています。この罪のために私たちは無意識の内にも自分の人生はなかなか思うようには行かないと思うことがあります。このような中でキリストはこの空中(世の中)に来てくださり、十字架に掛かり死んでくださいました。

そしてイエスキリストのご性質については、「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。」(第一ペテロ2:22)とあります。これがイエス様の性質でした。罪や欺きのない方でなければ「約束の契約」を果たすことが出来ません。その約束を果たすためにイエス様は私たちの背きと罪をその身に負うためにこの世に来てくださいました。聖書ではこれを「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」(エペソ2:5)いわばキリストはご自分の命を代価として私たちをサタンの支配するこの世から救い、信仰に導き入れてくださいました。このクリスチャンと呼ばれる私たちの集まりが教会です。

 

イエス様がこの世に来てくださった目的でした。そのイエス様を信じる集まりが教会となり、このペンテコステを機に聖霊が集まっていた人たちの上に降ることによりイエス様に代わる聖霊なる神様の働きにより教会として誕生し、更なる力を得て成長していくことになりました。

 

『教会の性質と使命』

ある時、イエス様の元に一人のカナン人(異邦人)の女性が来て娘の病の癒しを求めましたが、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません。」(マタイ15:24)と仰って退けましたが、しかし、彼女の信仰に打たれて、その願いに応えて、彼女の娘を癒されたという記事がにあります。カナン地方が当時、異邦の地と言われていたかどうかはともかく、初めはイスラエルの民が救済の対象であったと思われます。

しかし、イエスは自らそれを破り、最後には「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)、そう弟子たちに愛をもって宣言され、天に昇られました。そしてパウロなど使徒たちにおいてもやがて世界中に出て行き、いわゆる異邦人にもその伝道の働きが広がり、私たち日本人もキリストに出会い信仰に導かれ、教会が生まれていきました。

教会には色々な人が集い、神様を礼拝する群れとなりました。当時、初代教会と呼ばれる群れにも様々な階層、職業、男女を問わず集まり、神様を礼拝していきました。神様に向く方向は一つでも、しかし、そこに集まる人たちの考え方や性格の違い、文化や習慣の違いにより摩擦が発生する場合があります。使徒パウロは予感していたのではないかと思います。ですから、今日のエペソ書には、「隔ての壁」(エペソ2:14)と出てきます。今の社会でも特に悪い意味で使われている場合があります。隔ての壁、分断の壁、二つの間を分けてしまう、隔ててしまう壁という言い方です。

聖書でもイスラエル人と異邦人の間の壁、しかし、イエス様を信じる人はその壁は打ち破られて今は、一つとされています。更にパウロの言うように、信仰をもって救われた人々の集まりの中でも壁が出来てしまうことも考えられます。

 

ちょっと表現は違いますが、「あなたがたはそれぞれ、『私はパウロにつく』『私はアポロにつく』『私はケファに』『私はキリストに』と言っているとのことです。」(第一コリント1:12)コリント教会の中で分裂、分割が起こっていました。高ぶり、争い、教会らしさを失っていました。何故でしょうか?私たちはキリストを信じ受け入れても罪の性質はまだ残っています。当時の初代教会の中でもそういう状況におかれる場合がありました。どういう内容で仲間割れが起こったのかは詳しく記されていませんが、対立はありました。人が集まり、組織が形成され、一つの集団となると必ずそこには衝突する事柄にぶつかります。

 

それは不完全な私たち人間の性というか、私たちの中に残る罪の故です。私たちはこの時代に生き、多くの場面でまたそういう場面を教会の内外に限らず、見ます。そして収拾のつかなくなるような悲しい状況に追い込まれることをしばしば知り、体験してきています。しかし、対立する事がいけないことではなく対立しながらも互いの意見や考えを尊重しながら落しどころを見つけていくように努めていく、自分の主張を貫くのではなく、相手の意見を尊重し、少しづつ妥協点を求めていく事が必要であり、こういうことがキリストを信じるクリスチャンの歩み方であると思います。

 

パウロはそのことをエペソ書2章の後半で語っています。「実にキリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、…16二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」(エペソ2:14〜)その裏付けと言うか、二つのものを一つにする、一つに結びつけるものは何かというと御霊と愛であると思います。

「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和のきずなで結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」 (エペソ4:2)

 

聖霊が与えられたときが、教会の誕生と言われます。神の助けがあってこそ、欲や高慢さによって動かきがちな私達の内側にも、愛と謙遜が芽生え、私達は教会らしくあることができるからです。 神の愛と助けを受けながら、私達は名実ともにキリストの教会らしくありたいのです。

 

私たちのバックグランドは皆違います。生まれ、育ち、環境、年齢も様々です。しかしキリストにあって御霊の導きの中で一つとされ、教会に集められ、教会の要の石であるキリストの深いご愛によって今を歩むことが出来ています。

この世の風雨は時に厳しく、辛いこともしばしばあります。しかし、キリスト、使徒、預言者という土台の上に建てられた逃れの場である教会がいつも私たちを迎え入れてくださいます。ペンテコステの日に今の教会が長い歴史を経ても変わらなく顕在していることを覚えながら新たな今週も歩んでいきたいと思います。

 

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