5月18日のメッセージ

ざく台キリスト教会 2025年5月18日 井本香織神学生

『いのちの息を吹き込まれ』創世記1章31節、2章7節

 

1、それでも生きよ〜よりどころを失っても

皆さんにとって、ふるさとの景色、匂い、味、音、といえば、何が思い浮かぶでしょうか。

 

私は福島県いわき市というところで育ちました。湯の岳という低い山のふもとに広い平野が広がっていて、温泉が湧き出ています。海まで車で15分ほどで行くことができます。朝は土鳩のなく声で目覚めます。母の作る肉じゃが、刺身といえば、太平洋で採れたカツオ、そんなことがふるさとを連想させるでしょうか。ふるさとを、遠く離れて、もう戻れない。それどころか、もうふるさとは、なくなってしまったも同然、15年ほど前には福島の原発付近に住んでいた人たちが体験したことでした。

 

実は、この創世記も、ふるさと、よりどころを失った人たちによって編集され、紡がれたものです。古代ユダヤ人は、ふるさとを、新バビロニア帝国という大きくて強い国に徹底的に滅ぼされました。神様を礼拝する心の拠り所であった神殿を失いました。多くの人たちが、ふるさとユダヤの地から、遠くバビロニアに補修の民として強制的に移住をさせられました。

彼らは、名前をユダヤ式からバビロニア名に変えなければなりませんでした。新しい言語を覚えなければなりませんでした。自分が育ったところと、全然違う匂いと景色、気候、食べ物の土地で、何よりも、異教の神々を拝む人たちの中で、生きていかねばなりませんでした。

多くの人たちにとっては、決してハッピーではない日々です。お先真っ暗、よりどころを失って闇の中を歩むような感覚におちいったこともあったでしょう。

けれども、彼らは祖先から語り継がれていた、神様のストーリーと向き合いました。

創世記1章、最初のせりふは「光よ、あれ」です。古代世界、光は、「秩序」を表しました。闇は「無秩序。混乱」を表します。

あなたたちが、生きる世界は、「無秩序で、意味がなくて、混乱している」世界ではないのだよ。闇の中を歩むように思える時も、神さまが働き続けてくださっているよ。「意味がある、秩序のある、神様がかえりみてくださっている」世界に、わたしたちは生きていくのだよ。

闇を歩むような時があっても、あなたたちは、それでも、あなた方は神と共に光の中を歩むのだ、と語られているのです。

 

2、1日、1日が、「良い!」「良い!」

ここで、「良い、極めてよかった。」と訳されている言葉は、「トーブ(ヘブライ語)」という言葉です。1日を終えるたびに「良かった。」「良かった」と繰り返されています。

たとえば、「主はいつくしみぶかい。」というときに「主はトーブ」と言います。ふるさとを失い、それでも生きていかねばならないユダヤ人たちに、目をあげてこの世界を見てごらん。空を、生き物を、季節が巡っていくのを。人の体の仕組みの精巧さを。なんてよくできているのだろう。世界のあらゆるものを通してメッセージを送り続けてくださいました。

そして世界に興味関心が、むき続けるときとき、自分自身も神さまに「良い!」と語られていることに気づいてほしい。あなたの存在は、神にとって「良い!」あなたの隣の人も神さまにとって「良い!」と語られているのです。

3、ほんとうのふるさと

アダムは土、アダマーという言葉から名付けられました。この「アダム」は登場人物の人物名であると同時に、「人間(アダム)」という意味を持っています。

 

ある聖書聖書学者は、「アダムとエバに当てはまることは全ての人間に当てはまる。」と語っています。創世記を読めば読むほど、本当にそうだな、と思うのです。

なぜ、「人間」をあらわす言葉が、「土」という言語と関係があるのでしょうか。

人が土を耕し、土から採れたものを食べることから。そして、人の身体は、誰もがいつかは土に還っていくことを神様は教えようとし、古代の人たちもそれを実体験としてよくわかっていました。

そして、この「土」は、人間をあらわす一つのたとえでもあるのです。古代から、人は土をこねて器を作りました。土の器は、ひびが入ることもあり、落としたら割れてしまいます。

人は、元気なときもたくさんありますが、病をえることも、ケガをすることも、精神的なダメージを受けることもあります。土の器のように、人は、もろさを持っているのです。この、もろさを持っている土の器のような人間に、神様は「命の息」を吹き込んでくださいました。

命の息を吹き込まれた人間は、「魂、霊(ネフィシュ)」を持つものとなりました。

人の魂、霊は、神と親しく交わるときに、満たされ、潤されて、歩むことができます。

人が住むようにと神さまが与えてくださったエデンの園は、「潤された場所」という意味を持っています。私たちは、土の器のようなもろさを持ちながらも、私たちのうちに吹き込まれた霊が、神と親しく交わる中で、深く喜び、潤されていくのです。

 

古代ユダヤ人たちは、ふるさとを失い、神様を礼拝する神殿を失いました。

私たちも、よりどころを失うことがあるのだと思います。例えば、それは、自分をいつも心にかけてくれている親、愛する家族、心を込めてしていた仕事、若さや体力、友人、慣れした親しんだ生活スタイル(自分は、まだ本当身近なものを失う経験を多くはしてはいないので、偉そうなことは語れません。)それでも、人生の先輩たちの姿を見させていただき、あぁ、いつかは失うのだな、と教えられ心を寄せて共に祈ることを教えられます。

 

病を得ながらも、その内にある魂と霊が喜んでいた、◯◯さんの姿を覚えます。また、愛する人の病の傍らにいて、祈り続ける●●さんの姿を覚えます。ふるさとを失いながらも、礼拝し続ける福島の人たちを覚えます。

 

私たちの親しい人も、愛する人も、私自身も、土の器のようにもろさを持つ存在なのだと思い知らされます。しかし、私たちは、おびえながら闇を歩むのではありません。神様は、おっしゃいました、「あなたは光の中を歩む。これからも歩み続ける。」

「どうせ土にかえるのだから、生きることに喜びはない。」「今が楽しければそれで良い。」という生き方とも違います。「あなたの身体は、土の器のようにもろさを持っている。しかし、あなたの霊と魂は、私の吹き込む息によって、日々力を得る。」古代の人たちが受け取った深い喜びを受け取りたいと思います。

 

私たちの一日、一日が、神様によって「良い!良い!トーブ!トーブ!」であることを私たちは受け取め、生きていきたいと思います。

 

黙祷をもって終わります。

 

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