毎日の聖書3月23日〜

3月24日(月)申命記4章

2節「私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。」

私達は、神の言葉は真理だと、愛ゆえに与えられたと、従えば最善へと導かれると、頭では分かっています。しかしイエスの前を去っていった金持ち青年(マタイ19:22)が私達の内側にも住んでいて、従いたくない、なんとか誤魔化したい、と叫びます。あの青年はその後どうしたのでしょうか?ずっと去ったまま?それとも戻ってきた?彼は私たち自身です。私たちはイエス様にどう応えましょうか?

 

「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」申命記30章19節

3月25日(火)申命記5章

32節「あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行いなさい。右にも左にもそれてはならない。」

人々は、約束の地を目指す前に、初心にかえり、十戒の契約を、再び確認します。右にも左にもそれないためでした。新しい一日を始める前、忙しく準備することよりも、準備の手を休めて神の言葉を確認してみてください。イエス様の足跡を一歩一歩踏みしめる一日となりますように。

 

「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」第一ペテロ2章21節



3月26日(水)申命記6章

5節「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

旧約律法の、十戒の要約がここにあります。キリスト教最大の神学者アウグスティヌスは、「まず神を愛せよ、その後あなたの欲することをなせ。」と言いました。神への愛に導かれるなら、私たちは悪を離れ、人の仕えることにつながるからです。わたしは今、神を愛しているか?わたしの行動は神への愛に基づいているか?問いながら今日一日を歩んでください。私たちが愛するはるか前から、神は無限の愛をもって私達を愛しておられるのですから。

 

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」第一ヨハネ4章10節



3月27日(木)申命記7章

21節「彼らの前でおののいてはならない。あなたの神、主、大いなる恐るべき神が、あなたのうちにおられるから。」

人は恐れる(畏れる)ものに、影響されます。かつて宗教改革者は以下のように語りました。「あなたの心と行動に最も影響を及ぼすもの、それがあなたが本当に神としているものである。」あなたは神を畏れていますか?人を恐れていますか?最高の知恵(伝道者12:13)は、神を畏れ、神にのみ影響されることです。今日一日を賢い人として歩めますように。私たちは素晴らしい方とすでに出会っているのです。

 

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」伝道者12章13節



3月28(金)申命記8章

5節「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。」

荒野の40年、そのすべての「苦しみ」は無駄ではなく、「意味」があったのだと、彼らは理解しました。今苦しみや困難に直面していますか?そしかしたら私達のその苦しみにも何らかの意味があるのかもしれません。神に聞いてみてください。

 

「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」第一ペテロ1章7節



3月29日(土)申命記9章

27節「あなたのしもべ、アブラハム、イサク、ヤコブを覚えてください。そしてこの民の強情と、その悪と、その罪とに目を留めないでください。」 

モーセでさえも、このように祈りました。神が恵みの契約にこそ目をとめて、罪ある私達に目をとめないように、と。モーセは知っていたのです。自分は「赦された罪人」(ルター)だと。

今、神は、キリストの十字架の贖いに目をとめて、赦しの思いで、その向こう側に私達を見ていて下さいます。私達の神は、人を責め苦しめる裁判官や閻魔大王でなく、自らが十字架にかかられた方です。私達は赦されるためにがんばるのでなく、すでに赦されたからこそ、感謝と喜びをもって生きるのです。

 

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」ガラテヤ2章20節



3月30日(月)申命記10章

16節「あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。」

‟うなじのこわい“は、牛がくびきをかけられるのを嫌がり抵抗する、という意味の言葉で、神への心の固さ、を表現します。くびきが私達を苦しめ、悪い方向へと導くものなら、抵抗するのは仕方ないかもしれません。しかし、心優しくへりくだっている主イエスのくびきは負いやすく、最善へと私達を導くのです。神様に対してへりくだった先に、真の平安と自由があるのです。

 

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」マタイ11章28~30節

 

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