3月23日のメッセージ

2025年3月23日「礼拝の再確認、めぐみの再発見」

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<ヨハネの福音書4章>

3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。・・・

 13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」

 19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。20 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 21 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。 22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。 23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。 24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」

 25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」・・28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。

 

<礼拝する理由>

みなさんは礼拝式に参加しておられます。なぜでしょう?習慣だから?心が落ち着くから?教会の皆さんに会いに?いくつもの理由があって、良いのです。けれど、私達には、ただの習慣や、義務や、有益さを超えて、礼拝する理由があるのです

 

礼拝(Worship)という言葉は、ヘブライ語で、「かがむ」・「お辞儀をする」、という意味で、そこから、「拝む」、「ひれ伏す」、といった意味が派生します。(別の言葉で「仕える」や「働く」という意味の言葉もあり、英語では日曜礼拝を「Sunday Service」と言います。)聖公会の教会には跪くための台がありました。御茶ノ水のニコライ堂(ロシア正教の教会)では、文字通り身体を投げ出して礼拝していました。

私達プロテスタントでも、頭を垂れて祈り、讃美歌を歌い神を讃え、聖書という神の語りかけに耳と心とを傾け、献金を捧げ、心と魂で、神の前にひれ伏します。

 

信仰を持つ前、何かに膝をかがめるなんて、と思っていました。まして、晴れたお出かけ日和の日にも、雨で足元の悪い日にも、時間や労力、用事や交通費を犠牲にしてまで礼拝式に行くなんてナンセンスだ、と考えました。

 

しかし、当時の私は、大切なことを見落としていたのです。礼拝の相手の存在です。誰でも、特別な人(俳優や歌手、著名人)や、大切なイベントには、何を犠牲にしても会いに行き、参加します。

私達が礼拝式に行くのは、大切な存在に会うためです。その方は、イベントで見る著名人のように離れた場所からやっと見える遠い存在ではない。宗教教祖のように、ふんぞり返って私達が何かを差し出すかで、どのように仕えるかで、私達を値踏みし、搾取する方ではない。逆に、私達を尊び、私達に仕え、私達のためにどんな犠牲でも払う神です。

<私達が礼拝する方>

新約聖書の福音書で、「礼拝」という言葉が一番出てくる箇所。それは、「サマリヤの女」と呼ばれる女性が出てくる箇所です。(19〜24節の礼拝に関する問答)ここには私達が礼拝する存在がどんな方か、鮮やかに記されています。

3〜4節で、「サマリヤを通って行かねばならなかったとあります。これはイヤイヤ、仕方なく、ではなくギリシャ語で「デイ」。神の必然を表す言葉です。神は、イエスは、サマリヤを通り、どうしてもこの女性に会わねばならない!、と考えられたのです。

 

イエスがどうしても会わねばならないなら、この女性はよほど素晴らしい人なのか?違います。

サマリヤとは、ユダヤと敵対する国でした。女性は、当時の文化では男性よりも下に見られていた。さらにこの女性は、暑い真っ昼間、誰もいない時間にわざわざ水を汲みに来ざるをえないほど、社会的に阻害された人でした。結婚と、離婚を5度繰り返し、今は同棲している。(21世紀の日本ならまだしも、古代中東ではありえないことです。)

 

そんな、民族的にも、文化的にも、社会的にも、宗教的にも、最も神から離れた女性。そんな人に、イエスは会わねばならない、とサマリヤを訪れ、井戸で待っておられた。

女性が神に近づいたのでない。神が地上に来て、敵国に来て、酷暑の昼間という人が出歩かない状況へと、見下され嫌われた女性に会いに来たのです。神が様々な壁を乗り越え、打ちこわし、どんな犠牲を払ってでも、私達に会いに来る、それが礼拝です。

 

 エペソ2章13〜16節「以前は遠く離れていたあなたがたも、・・・キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、・・・十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」

 

礼拝は、私達側からの行為だと思っていませんか?礼拝式は神の招きの言葉(招詞)から始まります。神の招きが、願いが、私達への想いがあってこそ、礼拝が始まる。

私達が神に近づいているようで、神が私達に近づいている。私達が神に仕えているようで、神が私達に仕えている。私達が犠牲を払っているようで、キリストが十字架という犠牲を払い、命を捨ててまで、神が私達と出会えっている。

ですから、私達が礼拝でひざまずき、讃美や祈りを捧げながら見上げると、そこには神でありながら、誰よりも低くへりくだり、すべてを与え尽くし、十字架にかかってまで、私達に命と救いとを差し出している方を見るのです。

<礼拝で受ける恵み>

そのような方と出会う時、何が起こるのでしょう?イエスは飢え乾くかのように、結婚と離婚を繰り返した女性に言われました「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(13〜14節)

当時女性からは離婚できません。ですから、女性が夫を選り好んだのでなく、相手から拒まれ、捨てられたのです。それでも飢え乾くように、今度こそは、今度こそはと結婚相手に期待しては、裏切られ、捨てられていた。焼け付くような昼間の暑さ、汲んでもやがて無くなる水瓶の水は、彼女の歩みや心を象徴していました。彼女は、自分を受け入れ、愛し、共にい続けてくれる存在を求めては、失望してきました。

だからこそ、彼女には、礼拝が、神との出会いが必要だったのです。ある人は、礼拝を楽器の調弦(チューニング)や調律に譬えました。様々な出来事を通して、私達は日々、時に大きく、揺さぶられ、打ち付けられ、自分自身が何者か、どのように歩むのかを、見失ってしまう。だから、礼拝式で、取り扱われ、自分を取り戻す必要があるのです。

 

男性にいいように利用され続け、社会からのけ者にされ、宗教的にも見下された彼女は、完全に自分を見失っていました。しかし、小さい頃から聞かされていた、「キリストと呼ばれるメシア」神からの救い主が、様々な壁を超え、まさに自分に会いに来た。

自分は神の目にそれほどの存在なのだと、悟ったのです。

 

後は言葉はいりませんでした。彼女は、「自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。」のです。私は出会った!と。

「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」と言ったとおりでした。

 

礼拝とは、何かについて、お話することはたくさんあるのですが、何より大切なのは、私達が礼拝で出会う方がどのような方かです。私達が拝み仕えるのではなく、神が私達にへりくだり、神が私達に仕える、その事実こそが、私達を生かし、新しくさせるのです。

黙示録では、最後に天での礼拝がでてくるのですが、こう結ばれます。「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」(黙示録22章17節)

 

このような恵み深い神に心を向け、礼拝の心で、日々を歩んでください。

<礼拝に関する補足>

 

<いつ・どこで>

礼拝は、日曜日に教会堂で・・・だけではありません。家庭礼拝という言葉があり、日々行う家庭もあります。聖望学園では月〜木の平日に、もみの木幼児園では毎日(青梅幼稚園では毎週水曜日)、礼拝があります。

「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。」(ヨハネ4章21節)とイエスが言われたように、聖地や教会堂、だけが礼拝の場所ではないのです。

 

また、使徒パウロは、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12章1〜2節)と書き残しており、日曜日の礼拝式だけでなく、私達の生き方そのものが、あらゆる時間、あらゆる場所での歩みが、神への礼拝だとしています。

 

ある教会では、礼拝の最後に、これで「礼拝を終わります。」とは言わず、必ず「これで礼拝式を結びます。」と言い区別します。礼拝は終わらないからです。

<だれが>

誰でも、どんな状態でも、礼拝できるのです。「私は正しくないので、神様に顔向けできない」と言う必要はないのです。イエスが、取税人、遊女、罪人、こどもを訪れたのを忘れないでください。

今日の箇所のようにたった一人にも出会ってくれるのが神様ですし、ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18章20節)とも約束されています。

<なにを・どのように>

礼拝プログラムには、讃美歌、祈り、聖書朗読、交読文、メッセージ、聖餐式(カトリックではこれがミサの中心です)、などがあります。

これらは礼拝の大切な形であり、形を行うことで中身が伴ってくることも多々あります。しかし「形骸化」という言葉があるように(イエスの時代の宗教指導者たちが良い例でしょう)、この形の中に、いのちが、礼拝の心が、吹き込まれなくてはなりません。

 

また、初代教会は、みなで神を礼拝する縦の関係と、人々が互いを大切にし食事の交わりを持つ横の関係の、両方を大切にしました。

私が神とつながっているから良い、で終わらずに、最後の晩餐でイエスがあなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)と命じられたように、互いに思いやり、重荷を負い合うこともまた、神への礼拝の一部なのです。

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