1月12日のメッセージ
2025年1月12日 マルコの福音書1章40〜45節 広瀬由佳牧師
序: 交わりの内側で
物語を見ていきましょう。おそらく今日の物語はたった二人だけの間で起こった出来事だと思うのです。物語の舞台は町中ではなく、人里離れた場所、誰も寄り付かない場所だったはずだからです。レビ記一三章にはこんな記述があります。
患部があるツァラアトに冒された者は自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって、「汚れている、汚れている」と叫ぶ。その患部が彼にある間、その人は汚れたままである。彼は汚れているので、ひとりで住む。宿営の外が彼の住まいとなる。(レビ記13:45-46)
ツァラアトのある人―なんらかの皮膚病ではないかと言われていますが、よくわかっていません。壁や布にも見られる状態なのでカビの一種ではないかなとも思われますが―は、汚れが移らないように宿営の外に住んでいました。汚れた人や汚れたものに触れると汚れが移る、というのが当時の常識でした。「汚れている、汚れている」という叫びも、おそらく他の人が誤って触れることのないためでしょう。
けれども、宿営の外に住んでいては、食べ物や必要なものが調達できません。生活に困るはずです。家族や誰かがこっそり食べ物を運んでいたのではと言っている人もいます。生きること自体がタブーとされていた人、それがツァラアトに冒された人たちの状況でした。
衣服を切り裂くとは死者を悼む行為です。ツァラアトに冒された人は生きているのに死んだような状態に置かれていました。生きているのに死んだものとされているこの人たちの状態と、死を悼む行為のイメージが重なります。
現代の私たちからすると酷い人権侵害です。けれども、このようなルールには理由がありました。交わりの内側を守るためです。汚れとは宗教的な概念です。神の民としての生活を守るために、人々は不適切と思われる状態の人やものを徹底的に排除していました。
現代を生きる私たちも、似たようなことをしているかもしれません。自分たちの共同体、所属しているグループを守るために、誰かを排除しているということはありふれたことではないかと思うのです。社会的に力がなく、大切にされていない存在をマイノリティと言います。マイノリティではない人たちをマジョリティと言います。大抵の場合マジョリティの方が人数が多く、マイノリティは少数です。マジョリティを「みんな」と言い換えてもいいかもしれません。「みんな」は輪を乱す存在、足並み揃えることができない存在、マジョリティにとって不可解な存在を排除し、存在してないものとして見ます。そうすることで交わりの内側は守られます。
学校という場所で働いているととくに思うのですけれど、人が多く集まって組織を形成するとき、だれかを犠牲にしなければ集団が立ち行かない、ということがあります。本当は誰かが傷ついている、困っている、そういうことに気づきながら、「仕方ない」と切り捨てる。そういう人は交わりから居場所を奪われます。出席簿の中の長期欠席している生徒の欄に「欠席」という意味の斜線を引くとき、あるいは様々な文書から退学した生徒の名前を横棒で消すとき、その線が、かれらが居場所を奪われたという事実を象徴しているように感じます。
学校だけではなく、職場で、教会で、あるいは「社会」というもっと大きな枠組みで、そういうことはよくあるなぁと思います。
たとえば性的マイノリティと言われている人はだいたい十人に一人の割合で存在しています。これは左利きの人と同じ割合です。ですから、ここにいらっしゃる皆さんも、絶対に身近に一人もいないということはあり得ません。けれども、皆さんの中には知り合いの中に性的マイノリティは一人もいないんだけどな、と思う方もいらっしゃると思います。それは、性的マイノリティが、自分の本当の姿を明らかにできずに生きているからです。特に教会では。攻撃されたり差別されたりトラブルが起きたりするのを避けるためです。その他、あらゆるマイノリティの人がいますが、目に見えてわかる場合を除き、自分のマイノリティ性を明らかにすることに危険を感じて隠さざるを得ないという人はよくいます。
そういう人はいないことになっています。生きているのに死んだ状態に置かれていた人たちのように。宿営の外に追いやられていた人たちのように。交わりの内側では、そういう不都合な事実は隠されています。
教会という交わりの内側で、私たちはどうやってこの物語を聞けばよいのでしょうか。
1:交わりの外で出会う(四〇-四一節a)
この物語は交わりの外にいた人がイエスさまのもとに来ることによって動き出します。
さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります」(1:40)
イエスさまはこの出会いに激しく感情を動かされ、癒しのみわざを行ったのです。この激しい感情の動きは「この現状を変えなければならない」という強い思いでした。
私たちは誰かを交わりから排除することに慣れています。「仕方ない」と納得し、当然のこととして受け入れています。誰かが生きているのに死んだ状態にされていることに慣れています。麻痺しているのです。
そうはいっても、ちょっとぴんとこないという方もおられるのではないかと思います。私は、皆さんを個人的には知りません。でも、この中に意図的に人を排除しようと考えるような人はいないのではないかと思っています。けれども、それでも今朝、私は私たちが人を排除しているということについて語りたいのです。
私たちは、気づかずに、悪意なく、人を排除してしまうものだからです。
誰かの犠牲の上に成り立つシステムに気づくことができるのは、追いやられた側の人であり、そうでない人はなかなか気づかないものです。
本当は誰かを虐げ、誰かを抑圧し、そして誰かを排除してしまっているシステムがあるのに、それに気づかずにそのシステムを当たり前として素通りしてしまう。意図的に目を背けているというだけでなく、本当に、単純に、まったく気づかないということがほとんどではないかと思います。そして、誰かを排除するシステムが、マジョリティにとっては心地よくて素晴らしいものに感じたりするのです。なんて残酷なことなんだろうと思います。
けれどもイエスさまはそうではありません。素通りにしない。当たり前のこととして受け入れない。激しい感情によって現状を変えようとするのです。
2:交わりの外で触れる (四一b-四二節)
イエスさまはその手で現状を変えようとされます。
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐにそのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。(1:41-42)
ツァラアトに冒された人は汚れた者とされていました。汚れた者としてではなく、清いものとして生きて行ってほしいんだというのです。わたしの心は、わたしの願いはあなたが清くなることなんだ、と。この「きよくなれ」は、正確には「あなたは清められなさい」という言葉です。受け身の命令です。神さまによって清められるように、ということです。
いのちの源である神さまからいのちをいただきなさい。人はあなたからいのちを奪おうとするかもしれない。生きているあなたの尊厳を奪い、生きる力を削ぎ、あなたが苦しみながら生きている現実を素通りするかもしれない。けれども神さまはそんなあなたを生かすことができる。だから神さまからいのちをいただきなさい。そう願ってイエスさまはかれに触れるのです。
冒頭のレビ記を思い出してください。本当は、ツァラアトに冒された人には触れてはいけないのです。そんなことをしたら触れた人にまで汚れが移ってしまうから。
ここには、タブーを犯すイエスさまの姿が描かれているのです。
聖書には様々なタブーが書かれています。それは交わりを守るためのルールです。けれども、聖書を見ていると神さまご自身がそれを破る様子が描かれています。安息日には働いてはいけないのに、イエスさまは安息日にもいやしのみわざを行います。血を飲んではいけないのに、イエスさまは杯をご自身の血にたとえられます。
ご自身の定めた境界線を越えてでも神さまは人を生かそうとされるのです。
交わりの内側を守ることと、交わりの外に置かれた人の為に境界線を越えていくこと、私たちはどちらに力を注いでいるでしょうか。
ここでイエスさまが背負ったリスクは、汚れをその身に引き受けるというリスクでした。この人に触れさえしなければ、汚れを引き受けるというリスクとは無関係でいられました。言葉だけで癒すことだってできたはずです。けれどもイエスさまは手を伸ばし、彼に触れるのです。
小説家の村上春樹は「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」と言いました。小説家とは何があっても卵の側に立つ存在でなければならないとかれは言います。私はこの言葉が大好きで、キリスト者もまた卵の側に立つ存在だと思っています。(自分が常に卵の側に立ち続けているかと言われていると自信はないですが)
イエス・キリストは卵の側に立ち続けた方だからです。それは、安全な側から出ていのちを危険にさらした。壁にぶつかってぐちゃぐちゃに割れる覚悟をした方です。
イエスさまは十字架上で「他人は救ったが自分は救えない」(マルコ15:31)と言われました。イエスさまに反対する者たちのセリフではありますが、この言葉はイエスさまの人生をよく表していると言えます。イエスさまは神の子であるにもかかわらず、壁の側から人を救ったのではない。イエスさまはご自分を救うどころか、ご自分を死に追いやってでも、人のいのちを救おうとしたのです。
3:交わりの外へ追いやられる(四三-四五節)
この後の記述は不可解です。
イエスは彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせた。そのとき彼にこう言われた。「だれにも何も話さないように気を付けなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたものをもって、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」(マルコ1:43-44)
誰にも言わないように、というのです。それもかなり強い口調で。
おそらくイエスさまの「行為」だけが知られていくことを禁じたのだろうと思います。ツァラアトが治るという「行為」だけがセンセーショナルに伝わっても、イエスさまの思いが必ずしも正しく伝わるとは限りません。だから禁じられたのだろうと思うのです。
私たちの宣教の言葉は本当に福音を伝えるものになっているだろうか、と立ち止まらされます。私たちはイエスさまの思いを知り、イエスさまの思いを伝えているだろうか、と。
この清められた人は、立ち止まることなくこの出来事を広め始めます。
ところが、彼は出て行ってふれ回り、この出来事を言い広め始めた。そのため、イエスはもはや表立って町に入ることができず、町の外の寂しいところにおられた。……(1:45)
人々の理解のなさからイエスさまは外に追いやられていきます。「寂しいところ」は「荒野」や「人里離れたところ」とも訳されますが、「交わりの外」ということです。ツァラアトに冒された人がもともといた場所です。
一方、交わりの外にいた人は交わりの内側に回復されます。
救いとは逆転です。私たちがいのちを回復される代わりにイエスさまはいのちから追いやられるのです。
宣教が進むと同時にイエスさまは追いやられていき、ついに十字架にまで追いやられます。人間の理解のなさが神の子を十字架で殺す。けれども、その最大のタブーが人を生かすのです。
マルコ福音書の末尾の言葉は「恐ろしかったからである」(マルコ16:8)という言葉です。(その後も物語が続いているように読めますが他の人が書き加えられた記述だと考えられています)
「恐ろしかったからである」で終わる福音書、この福音書はイエスさまとそのみわざを目撃した私たちのちぐはぐな関係を描き続けるのです。神さまのみわざを目の当たりにしても、まったく理解できない私たち。それどころかあまりの不可解さに恐怖すら覚える私たち。
けれども、私たちの無理解をものともせず、みわざは続いていきます。
……しかし、人々はいたるところからイエスのもとにやって来た。(マルコ1:45)
いたるところ、あらゆる場所から人々が来ます。次から次へとやって来ます。神の子が追いやられていくという悲劇の中で、それでもイエスさまは私たちと出会い続け、癒し続けるのです。
私たちは誰かを交わりから追いやります。それが交わりの内側を守ることだと信じて。けれども一緒に、あるいは身代わりに追いやられた神の子は、そこでまた別の追いやられた人と出会い、触れ、癒していくのです。
だから私たちは、交わりの外、救いが起こる場所である交わりの外に目を留めなければならないと思います。
結: 交わりの外とは
私達にとって交わりの外とはどこでしょうか。それはきっと内側にいる私たちには不可解な場所なのではないかと思うのです。拒絶したくなるような場所かもしれません。ツァラアトとはそういうものでした。私たちは私たちの安全の為に多くの人を排除してきました。だから交わりの外に目を向けることに不快感や恐怖を覚えるのです。
一時期私には所属教会に通えなくなってしまった時期がありました。所属教会には行けない、でも礼拝は守りたい、と思っていた時に友人が自分の通っている礼拝に誘ってくれました。性的マイノリティと支援者のための礼拝でした。実際に参加してみたところ、その礼拝は「普通」の礼拝でした。特に変わったことは何もありません。「普通に」賛美して、「普通に」聖書を読んで、「普通の」メッセージがあって、その後は「普通に」ご飯を食べました。その礼拝に参加したことで気づいたことがあります。それは、この人たちは「普通に」礼拝することが許されていない人たちなんだ、ということです。特殊な礼拝がしたいから集まっているんじゃない、「普通」であることを教会から拒絶された人たちなんだ、と。
イエスさまは果たしてどこにおられるだろう、と思うのです。自分の教会に通えなくなった私、交わりの内側から排除されていたあの時の私は、あの「普通」の礼拝に、イエスさまがそこにおられることを感じました。
教会という交わりの内側で、私たちはどうやってこの物語を聞けばよいのでしょうか。
まずは交わりの外におられるイエス・キリストに目を留めたいのです。イエスさまは交わりの外で私たちに出会われる。交わりの外で心動かされ、その手で触れ、清め、癒し、回復させ、そしてご自身が交わりの外に追い出されてしまう。そして、交わりの外で変わらず人々に出会い続ける。
知り合いが「神の救いは教会の外で起こる」とよく言います。聖書を読むと救いは荒野で起きている、交わりの外で起きている、と。初めてその言葉を聞いた時、いい言葉だなと思いました。素敵だなと思いました。でも、何度かその言葉を聞くうちに、不快な気持ちに気づきました。確かに聖書を読んだらそうかもしれないんだけど、困るんだけど、そのメッセージ教会では語れないんだけどな、と思ったんです。でも、やりとりしていくうちに、あの不快さこそが人を交わりの外に追いやっているのではないかと思ったのです。内側にいる私は安全で、清くて、正しい。何の問題もない。わざわざ心乱されるような事実と向き合いたくない。そんな思いが、人を交わりから排除しているのではないかと思います。
私たちは内側の安全さに麻痺してはいけないと思うのです。交わりの内側だけを正しいものとし、交わりの外で働かれるイエスさまを見失ってはいけない。むしろ、人々を排除して線を引く罪を悔い改め、交わりの外で働くイエスさまを見続けなければならないと思うのです。そしてそれは、「交わりの外の人たちは可哀想に」という上から目線の同情でもないはずです。交わりの外で働かれるイエスさまの本質を見失ってしまった私達こそ憐れで、イエスさまから遠く離れていて、イエスさまに触れていただかなければいけないとへりくだることではないかと思うのです。
イエスさまは今日も交わりの外で働いておられます。そのイエスさまの姿をともに見続けていきたいと思います。