8月18日のメッセージ

おざく台教会2024年8月18日「たましいの糧⑬」

 

<聖書>第2コリント教会への手紙第 5章21節

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

<騙されないために、流されないために>

先週は、8月15日、終戦の日でした。いくつかの戦争特番も見ましたが、特攻や、回天や桜花などを見ていて、ひっかかった表現がありました。「戦争で死んだ人々は愛する者を守るために立派に戦い散ったのだ」、「彼らのお陰で今の平和な世の中があるのだ、」という意見です。
確かに、家族への思いがあったでしょう。聖書にも「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15章13節)とあります。けれど、その一言で戦争を、特攻をまとめてしまって、良いのでしょうか?
戦争をしなければもっとずっと平和でした。彼らが死ぬ必要も、彼らに殺させる必要もなかったのです。その人達の家族への愛を利用してまで戦地へと送った国は、国民を愛していたのでしょうか?戦争の相手は同じ人間なのであり、同じ人間に対して、人殺しや略奪や強姦をさせるとはどういう国でしょうか。

「国のために死ぬのが誇り、それだけを教えられてきた、家族のためなら命を捨てる、そう言わざる終えない状況にに追い込まれていた、わたし達は洗脳されていた、」そう語っていた元兵士の言葉が紹介されていました。

太平洋戦争だけで日本の戦死者は300万以上。(同時に私達の国は加害国、侵略国でもあるのです。)兵士の6割以上は、国の愚策による病死や餓死と言われています。金儲けや利権を巡って、戦争を始めた人がいました。大切な人のためだからこそ、戦争に反対した人がいました。
戦争という大きな犯罪、戦争をおこす私達の内側の罪、それらに目を向けず、若者の心を、その死を利用して、自国を美化しようとする安易さに、恐ろしさと悲しさを感じます。ドイツの首相は戦後40年の演説で「過去に対して目を閉ざす者は、現在に対しても盲目となる。」と述べました。私達が彼らにすべきは、美化ではなく、反省であり、謝罪であり、悔い改めなのです。

人の思いや、愛や、信仰は、戦争や暴挙にも利用されてしまいます。(戦時中の日本が国家神道を利用したように、ロシアも、イスラエルも、聖書の言葉を理由に、戦争を正当化し、国民を扇動しているのです。)ですから、私達は騙されないように、洗脳されないように、本当の福音(良い知らせ)を大切にしたいのです。

<犠牲を払うのは、私達ではなく神>
戦争は、国は、宗教は、大切なもののために、死ねと教えます。

けれど聖書は、福音は、キリストが大切なあなたがたのために死んだと教えます。そして、大切なもののために生きよと教えるのです。

 

この5章では、キリストこそが犠牲になったのだと繰り返し語られます。「ひとりの人がすべての人のために死なれた」(14節)、「キリストがすべての人のために死なれた」(15節)、「罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。」(21節)

キリストは、人を戦地に送り犠牲になることを強いる指導者とは違うのです。私達のためにも、私達と対立する存在のためにも、その罪を代わりに負い、十字架で死ぬのが私達の神なのです。

私達が犠牲になるのではない、敵に犠牲を払わせるのでもない、神が犠牲を払う、これが福音です。

事実を捻じ曲げてまで、過去の罪を否定してまで、自分たちの民族を肯定し、誇る必要はないのです。どれだけ愚かでも、醜くても、神が私達のために死なれた、そのことこそが、私達の唯一の誇りなのです。「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」(ガラテヤ6:14)

<報いはすでに与えられている>

戦争は、国は、宗教は、従えば、犠牲を払えば、報いが受けられると教えます。戦死したものは靖国神社で神として祀られる、聖戦(ジハード)で死んだものは天国で豊かな報いがある、教団の言うことを聞けば、お布施を払えば、宗教活動をすれば・・・などなど

 

しかし、聖書は、福音は、報いは、すでに、先に、与えられた、と教えます。

今日の箇所「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。」(21節)

「されました。」とあります

犠牲を払えばキリストが十字架にかかってくださるのではない、すでに私達の罪を背負われたと、完了形で語られているのです。

私達が犠牲を払う、立派になる、役に立つ、そんなことなど一切関係がないのです。すでに、キリストが十字架にかかられた、私達は愛され、赦され、受け入れられ、天国が約束されているというのです。福音とは、交換条件ではなく、いつも一方的に与えられるのです。

<神は私達の存在をすべて肯定するが、私達の言動のすべてを肯定するわけではない>

戦争は、国は、宗教は、自分たちは特別で正しいのだ、そう主張します。そして、相手は間違っている、劣った存在だ、というのです。100か0か、白か黒か、極端な見方で、敵味方の線を引き、自分たちの言動をすべて正当化します。

 

けれど聖書は、福音は、そうは言いません。確かに神は、私達がどれだけ愚かで醜くても、存在を肯定し、受け入れてくださる。けれど、先程の箇所はこう続きます。

「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(5章15節)

神は、私達が罪深い言動のすべてを肯定しているわけでは有りません。過ちを繰り返してほしくない、罪は罪として、悪は悪として離れ、新しく生きるように励ますのです。

宗教改革者マルチン・ルターは、「赦された罪人」と私達を表現しました。私達は愛され、赦され、肯定され、受け入れられている。けれど、罪人であるから、罪の性質があるから、変えられていく必要もまたあるのです。

 

「自分のために死んでよみがえった方のために(キリストのために)」、とは、お国のために、天皇陛下のために、とは意味が違うのです。また、キリスト教のために、教会のために、牧師のために、でもないのです。「自分の(あなたの)ために死んでよみがえった方(キリスト)のために」なのです。

15節には「ために」、と訳される言葉が4つありますが、キリストが主語で私達のために死なれたという場合はまさに「ために」の意味の言葉なのですが、私達が主語の場合は単に、「向けて」、という言葉です。

自分に向いて生きていたところからキリストに向いて、狭い視野で自己中心に生きていたところから、キリストに・キリストが気にかけた貧しい人・苦しむ人・差別された人に開かれて、というニュアンスでしょうか。

福音は、死ねとは言わないのです。新しく生きよ、と言うのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(5章17節)

聖書はこう続けます。「あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(16章1〜2節)

神を受け入れていない人は、キリストがあなたのために死なれた恵みを、ご自分のこととして受け入れてください。聖書とは、福音とは、私達が神に何をするかではなく、神が私達に何をしてくださったか、なのです。

すでに、神を信じている人、コリント人への手紙は信仰者に向けて語られたのです。彼らは、キリストに目を向けず、高慢になり、変えられようとしませんでした。福音をもう一度受け止めて、新しくされよという招きを、受け入れてください。。

 

キリストは、いつも手を差し伸べています。今は恵みの時、今は救いの日なのです。

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