6月23日のメッセージ
2024年6月23日「わたしたちはキリストのからだ」Ⅰコリント12章13ー27節 井本香織神学生
13ですから、私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。 14確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。 15たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。 16たとえ、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。 17もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。 18しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。 19もし、全部がただ一つの器官であったら。からだはいったいどこにあるのでしょう。 20しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。 21そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」ということはできないし、頭が足に向かって「私はあなたを必要としない」ということもできません。
22それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
23また私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、わたしたちのみばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、 24かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
26もし一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。 27あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
1、互いにつながりを持っているからだ
からだのさまざまな器官が、互いにつながりを持っている。そのように感じたことは、おありでしょうか?現代の科学では、まだわかっていない、限られた働きしかしていない器官だと思われていた器官が、なくてはならないバランスを保つ役割を果たしているということもあるでしょう。
今日お読みした聖書の中では、一人一人が、各器官、目、鼻、口、耳、食道、胃、腸、肝臓、膵臓、腎臓、手、足などなどの器官のように、それぞれが役割を果たし、互いに調和しあい、一つのからだのように互いにいたわり合って、一つのキリストのからだのように歩むのだよ、ということを教えています。目立つ体の器官、臓器もあれば、目立たないけれども、非常に大切な役割を果たしている器官もあります。
一つ言えることは、どんな器官、目、耳、脳、心臓であっても、独立して、その器官だけで生きていくことは不可能です。同じように、私たちも、神様と歩む中で、他の人とのつながりが、なくてはならないものだと教えられているのです。
2、神から愛されているものとして、ふさわしく生きる
コリントの信徒への手紙は、パウロという聖書の先生がコリントの教会に宛てて書いた手紙です。コリントの教会は問題がたくさんある教会でした。コリントの人たちのなかで、能力がある人たちは、我も、我も、と自分の能力を示すために、教会の中で異言といって、特別な言葉で祈りをしたり、突然、礼拝中に、預言の言葉を語って、礼拝が混乱した状態になっていました。お金持ちの人たちだけが先に集まって食事をし、貧しい人たちが後から来ても放って置かれていました。教会のメンバー同士で争いがあって、裁判にまでなっていました。
おそらく、教会に通っている人の表情は固く、関わり合うことを恐れて、自分のことを安心して分かち合うこともできなかったでしょう。そのような状態に、教会から逃げ出した人もたくさんいたはずです。それでも、なんとか神様と人とを愛して、歩みたい、とコリントの教会に通い続けている人は、辛かったでしょう。何よりも、神さまが、そしてイエス様が、コリントの教会の姿に心を痛め、悲しんでおられました。しかし、神さまは、コリントの教会をあきらめません、見捨てませんでした。
神さまは、コリントの教会に語りかけ続けました。そして私たちにもまた、語ります。あなたは、神様に愛されている存在なのだよ、それにふさわしく歩んでほしい。そう語りかけ続けているのです。
3、「あなたが、必要だ。」「なくてはならない」とおっしゃる神
コリントの教会の姿と彼らへの呼びかけから、他の人への配慮と共に、自分の与えられた力と役割を喜んで発揮することの両方を教えられます。
力や知恵、気力、能力、経済が与えられている人は、それを見せつけるのではなく、ますます調和を保ち、配慮し合うことを。一方で、たとえ私たちに苦手なこと、得意なことのデコボコがあり、人生のさまざまな時期があって、自分の生活でいっぱいいっぱいであったり、年を重ねられたり、病気を得た、そのような状態であっても、「あなたを必要とはしない。」とは言わず、かえって、いやますます、「比較的に弱いとみられる器官がかえってなくてはならない。」と神さまは、おっしゃる方なのです。私たちの中に、周りに、弱さを覚える方がおられたとき、その弱いところをカバーする配慮がなされるならば、全体をさらに、より良いものへと成長させられて、形造られていくのです。
子供の頃通っていた福島県の教会に、体と言葉が不自由な男性が礼拝にいらっしゃいました。椅子に座る事はできないので、いつも会堂の一番後ろの床におられました。車で何十分もかかるところに住んでおられて、教会の人が交代で送り迎えをしていましたが、体が不自由ななかで、家族のサポートもなく一人で教会に毎週礼拝にくることはどんなにか大変な事だったと思います。彼は、自分から誰かのところに話しかけにいく事はできません。限られた人とだけ交流しておられました。ある時、私が〇〇さんと話す機会があった時、〇〇さんは、40−50人くらいいる礼拝の人たちの、先週や先々週、誰が礼拝に来ていたのかを、はっきりと記憶していたことにとても驚きました。もしかしたら、礼拝の一番後ろの床から、神様を見上げ、周りの人をもよく見渡して、祈っていたのかもしれません。〇〇さんの、神様を見上げて礼拝する姿や、周りをよく見て把握しておられる姿から、私は、神様を求める素晴らしさを教えられました。
ぜひ、私には何もできない、と、ご謙遜に思わないでいただきたいのです。みなさんお一人お一人を通して、その姿、歩みを通して神様が、他の人に励ましや力をそっと与えてくれることがあります。
皆さん、すでになさっておられることかと思いますが、隣の人と、ちょっと目があったら、微笑むだけでも良いのです。その微笑みが、すでに隣の人に大きな励ましを与えているかもしれません。弱さがあっても、神さまが私たちを用いてくださる、そのような神さまの素晴らしさに目をとめたいと願います。
「私は、必要とされない人間なのではないだろうか。」「役に立っていない人間なのではないだろうか。」このような思いにさいなまれるとき、私たちは、孤独になります。
しかし、「あなたが必要である。」「あなたがいてくれて、本当に嬉しい。」そのように言われるとき、人は生き生きとした喜びを取り戻します。「あなたが必要だ、あなたが私の体の一部のように、なくてはならない。」その神様の声を共に聞き続けたいのです。
4、キリストが歩んだように、共に歩むように
キリストは、しいたげられている人、苦しむ人、差別されていた人と一緒にいました。
不正を行う人、いばっていた宗教家には、遠慮なく「それは間違っている!」と叱りました。病に苦しむ人を癒し、神様と共に生きるいのちを与えました。私たちも、そのようなキリストの体の一部のようになって、その歩みを共にするようにと、呼びかけられているのです。
それを一人でするようにとは、神さまはおっしゃいませんでした。隣の人と、小さいけれども素晴らしいおざくの教会で(教会に来始めたばかりの方であっても)、世界中の教会も、共に、一つのからだのように互いに労わり合い、働きかけ合いながら、キリストの歩みを共に歩んでほしいと語られているのです。
一つのからだのように一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、もし、ひとつの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶように、私たちは共に喜び、共に泣くのです。
仕事で、家庭で、一生懸命歩んでおられるとき、私たちは一人ではない。それが、私たちにどれほど大きな励ましと力を与えてくれるでしょうか。
何より、イエスさまが、あなたのために祈り、あなたの歩む道を全うできるようにと、自分のからだの一部分のように愛おしく大事に思ってくださっています。どうぞ、安心してこの一週間を、歩まれますように。