5月26日のメッセージ

2024年5月26日
『祈りによる教会』(斎藤義信信徒説教者)

「15節こういうわけで私も、主イエスに対するあなた方の信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いているので、16節祈るときは、あなたがたのことを思い、絶えず感謝しています。」エペソ1章15,16節

私たちの信仰生活においてどうしても欠かしてはならないものは聖書により神様から霊的な糧をいただくことです。そして祈りにおいて神様に私たちの歩みを直接知っていただくことであると思います。私たち人間としての成長と同様に信仰もみ言葉の飢え乾きを覚えたり、また将来に向けて私たちの目が主の目標なるものに向けられて行き、自分たちの祈りの祭壇がさらに堅固なものに築き上げていくという意味も出てまいります。また聖書については私たちがどんなに長い信仰生活を送っていても本当に正しく理解ができるとは決して言えません。逆に分からないところの方がたくさんあります。しかし、祈りにおいては私たちが理解できないところはありません。祈りこそ、自分の思うところを神様に向けることができ、他の人には言えないことも神様に聞いていただくことができると思います。

私たちが教会に来ます。そして多くのクリスチャンやまだ信仰に導かれていない方々との交わりを持ちます。証しも聞きます。年齢差などは関係なく、老若男女真剣に語り合い神様からの素晴らしい恵みをいただき、またチャレンジを受けることもあります。そのような交わりは貴重のことであり大切な事でありますが、しかしそれだけに甘んじてはなりません。先日、救いの証しをさせていただく中で、信仰を持つ以前の若い学生の時の自分を思い出すときに本当に自分はこのまま先の人生をまともに歩んで行けるのだろうか、道を誤り、とんでもないことになりはしないかと、夜になると空しさと絶望がこみあげて来ていたたまれない日々を送っていたことをお話ししました。また価値観の違う大人たちとかみ合わない言葉を交わすのも億劫になっていきました。しかしそういう心の一点に光(神様)が入って来た時に、すべてが変わりました。イエス様の十字架の死の意味がこんな私の罪のためであるという事を知らされ、深い悔い改めをしました。それから主イエスの信仰を持ってからは、祈ることを教えられ、神様に向かい、瞑想するように心を開きながらお祈りをすることで、心の中が洗われて行くような、しかし初めのころはなかなかな祈りにならない祈りで集中できないこともありましたが、ローマ書8章26節に「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは何をどう祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言葉にならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」とあるように何度となく罪の悔い改めをしながら神様に対話するようになりました。時には聖書のように言葉にならない瞑想の時間が続くこともあり、終わってしまう事もありましたが、この神様は私の心をしっかり掴んでいてくださり、時間を改めて向き直すときに道を示してくださることもありました。
祈りは信仰のバロメーターと言われた方もおりますが、長いから良い、短いとダメということではなく神様との対話が個人的にどのようなものなのか、それぞれ違いがあると思いますし、信仰の積み重ねの中で神様がどのように扱ってくださるか、一様ではありませんが、神様に訊きながら信仰の深みに届いていけることを願ってやみません。

さてエペソ人への手紙に戻りますが、ローマの獄中にあった使徒パウロが彼らにあてて書かれた手紙の一節でエペソの教会について覚え、神に感謝していることを述べています。彼はエペソの教会のまたその聖徒たちについていろいろな方法で情報を受けていたのでしょう。あなたがたの行動などを知らされるときにそのキリストの働きのゆえに感謝せざるを得ないといっております15、16節。
かつてパウロはキリスト教信者を迫害する者であました。使徒行伝その9章に信仰改心の姿が出来きます。彼はその一軍と共にダマスコにキリスト教徒を探し求めて行く途中で眩いばかりの光に出会い、その中でパウロだけが復活した主イエスに出会いました。そして「あなたはどなたですか」との質問に「わたしはあなたが迫害しているイエスである」との答えに、彼はその時、自らの視力を失いましたが、その代わりに心の目が開かれ、この方こそ主キリストである、と確信を得ました。

あの名もない大工ヨセフの息子のイエスが、多くの人々を扇動し、敵対する律法学者、パリサイ人たちに立ち向かい、一点の曇りもない解き明かしをし、彼らを翻弄し、律法学者たちからは神を侮辱するものだとののしられ、迫害を受けながらも挙句には罪びとの身代わりとして十字架の死に追いやられてしまった。しかし、死をもって終わりではなく、三日目によみがえられ、弟子を始め、多くの人たちの前にそのお姿を現して預言の通りにヨハネ伝14/2「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです」と仰って天に上って行かれました。この「主イエスに対するあなた方の信仰」とパウロはエペソの教会の聖徒たち言っておりますが、これは、自分はしっかりした信仰だとか、信心深いからということではなく、自分自身にただ絶望し、自分には頼りとするものは何一つない、というただこの唯一絶対なる主イエス・キリストを見上げざるを得ないという信仰、この方以外に私の頼るべき方はおられないんだということをしっかり理解していくことであり、これが主イエスに向かう信仰です。
パウロもまた一宗教者として神に仕え、厳格に守りその道に歩むものでありました。しかし、彼の目はまだ閉ざされていました、時にこんな自分に絶望し、自分の行っている言動、行動に矛盾を覚えながらも真理の道がまだ閉ざされている中でこの復活の主にお出会いした。目の前を覆っていた深い霧が晴れてはっきり見えるようになった彼は、この主イエスに対する信仰を今は牢獄の中に籠りながらも多くの主にある聖徒たちと全く同じ気持ちで常に差し伸べてくださる主のみ手におすがりして歩む信仰、「主イエスに対する私の信仰」、パウロがいう「あなた方の信仰」と言う事であると思います。私たちはこの信仰によって主を仰ぎ見ることが出来るのです。

エペソ書前半にはこのエペソの聖徒たちに対する愛について具体的に記されていませんが、使徒行伝9書に、ヨッパという町の女弟子のタビタという人が出てきます。「彼女は多くの良いわざと施しをしていた使途9章36節」と記されいます。しかし、彼女は残念なことに病気で亡くなりましたが、彼女を慕っていたやもめたちは近くに使徒ペテロがいるということを知ってすぐに彼を呼んで来てもらい、タビタが多くの貧しい者たちに施してくださった数々の事柄を話し、品々をペテロに見せました。それを見て心を動かされたペテロは亡くなって屋上の間に置かれたタビタに向かって「タビタ、起きなさい。」と言って彼女を生き返らせした。やもめや多くの人たちは驚きに包まれましたが、驚きながらもそれを見て信じ、その噂が町中に広がり多くの人たちも主を信じる人が多く起こされた、とあります。このような名も知れぬ弟子(聖徒)たちの愛の行為がパウロのところにも達していたのでしょう。
私が神学生の時に奉仕をしていた教会のある婦人の方は、貧しく身寄りのない若い人たち何人かを自分の家に住まわせ、生活させていました。身を立ててあげていたように思います。彼女はパン屋さんを経営していましたので私も貧しい神学生でしたから時々、パンのお裾分けなどしていただいた記憶があります。だれでもが
そういうことをできるわけではありませんが、それぞれの賜物としての施しがあると思いますし、そういう中で信仰を積み上げていくのでもあると思います。この「すべての聖徒に対する愛」、エペソの教会の聖徒たちすべてがそうであったわけではないと思いますがが、ヨハネの黙示録に出てくる7つの教会の一つにエペソの教会があります。エペソ教会について黙示録2章3,4節「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れ果てなかった。けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」ある注解者は、この箇所を時代の変化や世代が代わる中で起こりうる現象の一つであるのではないか、と語っています。数ある異端との戦いの中でキリストの愛がいつの間にか形を変え、言葉を変えてしまったのか?わかりません。初めの愛から離れるという事は教会によってはありうることです。
私たちの教会もお一人一人が主イエスが与えてくださっている信仰から離れず補い合いながら変わらない清い祈りをもって主のみ前に今週も歩んでいただきたいと思います。

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